44-5 駿府 今川館9
怖いよ。あの男。
勝千代は思い出してぶるると身震いした。
「急ぎましょう」
渋沢に急かされて廊下を歩きつつ、もう一度腕を擦る。
大広間での話し合いの結論は大きく三つ。
ひとつ、駿河衆のみで甲斐を撃退する。
ふたつ、朝比奈軍は今川館を囲うのをやめる。
そして最後のひとつが一番問題なのだが、駿河衆は「忙しくなる」ので、遠江衆が賤機山城に入り今川館の守りをすること……だ。
一見こちらに利がある話のように思える。
だが、これまで賤機山城の城番を務めていたのは三浦家の嫡男だった。武田の侵攻に備える為に自領に戻るそうだが、ちょっと待てと言いたい。
どう考えても、信濃国境の件をうやむやにする気だろう。
そう思って三浦家には疑惑があるから残すようにと言ったのだが、先鋒予定なので侵攻が終わるまで待って欲しいと返された。
先鋒? 強壮な武田軍相手に? 敵に証拠隠滅させるつもりなのではないか。
誰をどこにぶつけてどうしようという明確なビジョンが伝わってくるのが恐ろしかった。
温和な仏様のような顔をして、真っ青な顔をした三浦の嫡男に「ですよね」と言って頷かせていた。
有無を言わせぬ、言うことなどできない状況だった。
ここで無理にも行かせないと言えば、朝比奈軍を引っ張り出すつもりだろうし。
「お話しておかねばならぬことがいくつかございます」
勝千代は三浦の件の始末をつける事が出来ない事に気を取られていたが、渋沢はもっと別の事で気が急いている様子だった。
その表情は険しく、猶予はないといった感じだ。
福島屋敷へ戻るのかと思いきや、違った。
連れて行かれたのは今川館内にある番所で、何故こんなところへといぶかしく感じていると、「勝千代様!」とどこかで聞いたことのあるいい声で呼ばれた。
「……下村?」
それは、真っ青な顔をした岡部家の家老、下村だった。
頭が忙しなく情報を整理しようとする。
だがそこで足を止める間もなく、渋沢は目の前の重厚な格子戸を押し開けた。
「準備は出来ております」
低い声でそう言ったのは、牢屋が並ぶ薄暗い通路にいた男だ。
「では急げ」
格子戸の際で待ち構えていた下村と、その声の主とが足早に暗い牢屋の中へと入っていく。
嫌な予感がした。
しばらくして下村とその男ともう一人、背が高く肩幅の広い青年が出てきた。岡部一朗太改め、五郎兵衛殿だ。
「五郎兵衛殿」
勝千代はその無事な姿を見て、危惧していた事が起こったわけではないと、ほっと息を継いだ。だが表情を改める間もなく、濃厚な血の匂いに顔を顰める。
「何が……」
「勝千代殿」
すっかり声変わりも済み、成長期にメキメキと背を伸ばしている友人は、そこだけ変わらない優し気な垂れ目で勝千代を見下ろした。
「見て見ぬふりは出来ませんでした」
「気づかれる前に早く」
牢番らしき男が何やら大きな筵で包まれたものを抱きかかえて出てきた。
その塊を、下村と二人で受け取って、五郎兵衛殿は途方に暮れた様子で勝千代と渋沢とを交互に見た。
「葛山殿の御養子です。右も左もわからぬ某に、親身になってくださって」
「そのような話はあとにしましょう」
渋沢が窘めるように言って、二人がかりで担いでもなお重そうな筵に目を向けた。
「お助けしたいのなら、手当てを急ぎませんと」
何が起こっているのかよくわからずにいると、物々しく武装した逢坂老が「おい」と渋沢の腕をつかんだ。
「若を危うい事に巻き込むような真似をするな!」
「某が渋沢殿にお頼みしたのです!」
「待ってください」
勝千代は軽く手を上げた。
「葛山殿の御養子ですか?」
「はい。今川館で勘定方を務めておられました」
五郎兵衛殿の、何かを言いたげな口調にまさかと目を見開く。
うんうんと繰り返し頷く仕草は、見た目は大人になりつつあるが、まだまだ十四、五の若者の仕草だった。
「朝比奈殿、兵の撤退は始めていますか?」
何も言わずついてきていた朝比奈殿が、「指示は出しました」と答える。
そして、ちらりと岡部主従を見て、気が進まない風に眉間にしわを寄せる。
「罪科があって牢に捕らわれていたのでは?」
「いいえ! 八郎殿はそのような御方ではありませぬ!」
五郎兵衛殿はそう言って、若者らしいまっすぐな眼差しで朝比奈殿を見上げた。
「知ってはならぬことを知ったのです」
そういう彼自身、何か知っていそうな雰囲気だった。
薄汚れた筵からわずかにのぞく顔は青白く、まるで生気がなかった。きちんと止血が出来ていないのか、筵の端からぼたぼたと雫がしたたり落ちて、薄暗い石畳に黒い染みを作っている。
死体だと言われても、誰も疑問を抱かないだろう。
「……ずっと調べていたのですか」
勝千代が問うと、五郎兵衛殿はきゅっと唇を引き締めた。
岡部家がなぜあのような災禍にみまわれたのか、この四年間ずっと探っていたのかもしれない。
そして勘定方ということは、三浦とつながっている某所への金の流れを、確証としてつかんだのではないか。
だとしたら、これは勝千代にとっても他人事ではない。
「わかりました」
有益な情報を持っているのなら、死なせるわけにはいかない。
貴重な証人になるだろうその男を、どうすれば救えるかと算段していると、「勝千代殿」と普段より深刻度を増した声色で呼ばれた。
井伊殿も反対するのだろうか。どう説得するべきか考えながら首を巡らせると、しばらく口ごもって思案して、やがて渋々という風に口を開いた。
「葛山殿の御養子といえば……北条家ご当主の弟君ではないですか」
勝千代はぎょっとして、真後ろにいる井伊殿を仰ぎ見た。冗談や憶測を言っている口調ではない。
五郎兵衛殿も、下村も、渋沢までもが否定しない。
また北条か! と言わなかったのを褒めてほしい。




