44-4 駿府 今川館8
脂下がった庵原どのが、しきりと美形の僧形にまとわりついている。
どうコメントしていいものか。
息子よ、と庵原殿が満面の笑みで宣言しているし、それについて誰もいぶかし気にはしていないから、承菊が庵原殿の愛息だというのは有名な話なのだろう。
だがその……いや! 勝千代とて父とは似ても似つかない容貌だ。よそ様の事情についてとやかく口を挟むものではない。
養子とか、いろいろあるからな。うん。
内心のその動揺は、きっと多分誰もが通る道なのだろう。
井伊殿が何か言おうとしたので、軽く肘でつついておいた。まあ肘が届きはしなかったが、口を閉ざしてくれたから、伝わったと思う。
承菊も慣れているのだろう、表情にはかけらも思うところを露わにはせず、にこりと笑顔を向けてきた。
「よう言い聞かせておきますので、ご無礼の段はご容赦ください」
「し、承菊?!」
庵原殿は慌てた様子だが、勝千代はむしろその言葉に気持ちがすっと引いた。強い警戒心が沸き起こり、無意識のうちに目を眇める。
この男が父親に似ていようがいまいが、さしたる問題ではない。
男前のつるっぱ……もとい、僧形であることすら、こちらの油断をあおろうとする擬態に思えてきた。
相変わらずの目力だ。まっすぐにこちらを見る双眸は、ドライアイにならないのかと気になるほど瞬きが少ない。
勝千代はひと息ついて、言葉をひねり出した。
「庵原殿の御子息でしたか」
応えは、穏やかな笑みとともに返ってきた。
「仏の道に進んだ者です」
だったら今川館に訪ねてくるなよ。
勝千代はそう思ったことを、薄い笑みのオブラートで丁寧にくるんだ。
似たような表情が返ってきたので、きっと相手も内心は同じようなものだろう。
「いささか館の周辺が物騒でしたので、何事かと心配しておりました」
「ええ、御屋形様からのお許しは得ましたので、すぐにも囲いは撤収させましょう」
……作り笑いで頬の筋肉が引きつりそうだな。
承菊の喋り方は理知的で穏やかだ。しかも、誰からも好感を得るだろう整った容姿。
この手の人間は、どの時代においてもある程度の信頼と好意を抱かれる。いわゆる頼れる優等生タイプ。他人から向けられる感情のアベレージが、何もせずとも好意に振りきっているという、凡人から見れば非常に恵まれた男だ。
だが勝千代は忘れていない。
この男が、吉祥殿を連れて今川に戻ろうとしていたことを。
あれは庵原殿からの指示だったのか? あるいは桃源院様からの?
なんにせよ、善意の仮面をかぶって策謀を凝らすタイプの男だと考えて間違いない。
いや、そういう人間が悪だと思っているわけではない。そもそも善悪というものは、立場によってとらえ方は違うからだ。
ただ、常に注意を払って見ておくべき相手だという事だ。
「小耳に挟んだのですが、桃源院様が御倒れになったとか」
美しい真ん丸の頭が右に傾いた。
渋沢とどちらが男前かと問われると、おおよそが渋沢に軍配を上げるだろうが、この男のほうが圧倒的にとっつきやすい。
だが騙されてはいけない。この男は飛び散った鮮血の真上を横切ってきた。器用に汚れは踏まずに歩いていたが、見えなかったはずはない。『倒れた』などと、そんな穏便な話ではないと分かっているだろう。
「詳しい事は庵原殿に聞いてください」
そろそろ辛抱も限界になってきた。勝千代ではない、庵原殿のだ。
見るからに苛々と貧乏ゆすりを始めた鉤鼻オヤジに、承菊は困った相手に向けるような表情をした。
眦を垂らし、強すぎる目力が緩むと、それこそ仏像のような温和さと秀麗さだけが前面に出てくる。
勝千代は一息ついた。
「武田軍侵攻の件を話していました」
気を取り直してそう言うと、承菊は穏やかな表情のまま、得心したように頷いた。
「それでしたら、駿河衆だけでも十分でしょう」
その言葉こそが、勝千代の求めていた結論だったが、よりにもよって承菊の口から出たこと、あまりにも簡単に言い放たれたこととで、勝千代だけではない、その場にいるほとんどの者が息を飲んだ。
そんな周囲の視線を受けてもひるむことなく、更に。
「問題なく押し返せると思います」
整った容貌の僧形が落ち着いた口調で放つそれらの言葉は、面白いほど大広間の空気を掌握した。
先程までの不安や焦燥は完全になくなり、逆に意気が上がった風のざわめきが沸き起こる。
勝千代は興味深く、承菊のその強すぎる凝視に視線を合わせた。
周囲の視線を集め莞爾と笑う男は、人を惹きつけ扇動するという意味において間違いなく「特別」だった。
「今は伊豆衆が京へ出払っています。そちら方面の兵を回せばよい」
穏やかにほほ笑むその口元から、説法ではなく物騒な兵法を聞かされても違和感がないのが逆にすごい。
勝千代は視線を外さないまま同意した。
承菊の言うとおり、伊豆から河東に攻め入ってくる心配はほぼない。つまり、平時ならともかくとして、そこにずっと兵を配しておく必要はないという事だ。
「兵がおらねば問題も起きようがありませんからね。もともとそのために北条も伊豆衆を上洛させたのでしょうし」
「ええ、そのとおりです」
承菊はなおもこちらをじーっと見て、鷹揚に頷いた。
に、にらめっこかな。
瞬きを必要としない特異体質ではないので、勝てる気はしないが、目を逸らすのもなんとなくマズい気がして。
お互いに無言のまましばらくじっと見つめあっていると、よくわからない男はよくわからない意味深な表情でふっと笑った。
「兵がおらねば、問題も起きようがありません」
そして、勝千代の発言をゆっくりと繰り返した。




