44-1 駿府 今川館5
せめて血しぶきが散っていない場所へと、上座の方に案内された。
さすがに今の今まで御台様たちがおられた最上座に上がることは遠慮した。
それでも、示された席は大広間のもっとも上座の位置で、それもちょっとと思ったのだが、ずんずんと進んだ井伊殿が露払いのように先を歩き、ぐるりと周囲に睨みを利かせてから、「どうぞ」とばかりに頷いて見せたので諦めた。
軽く百人はいる武人たちからの凝視が、ずっとついてくる。
急に素足の立てるペタペタという音が気になった。できるだけすり足で進もうとしてみたが、足の裏に血液がついているからだろう、どうしても湿った音が出てしまう。
座るときにさりげなく見ると、袴の裾に結構な量の血がついていて、歩いてきた床の上にも足跡が残っている。
猛烈にふき取りたい衝動に駆られた。弥太郎が側に居れば、意を汲んで濡れ布巾を用意してくれただろうに。
胡坐をかいて座ると同時に、すかさず逢坂老が袖の位置を整えてくれた。別に構わないのに、形式美なのだろう。
顔を上げると、真顔でこちらを見ている駿河衆たちと真正面から対面する形になった。
やはり上座に座るのは良くなかったかもしれない。
そんな事を考えつつ、互いに頭は下げなかった。
「朝比奈殿はどちらに?」
御屋形様は、すぐに放免するとおっしゃっていた。皆が聞いていた御言葉を、なかったことにはできないだろう。
勝千代が単刀直入にそう問うと、大人たちは互いに顔を見合わせ戸惑った表情をした。
悪意ある言葉や態度がなかったのは、先程の御屋形様の怒りにいまだあてられているからだろうか。
「しばしお待ち下され。少々距離がござって……」
困り顔でそう言ったのは、志郎衛門叔父の同僚だと聞いたことがある駿河衆だ。
主要人物が軒並み退出して、これ以上は何も起こるまいと若干気を緩めていたのが良くなかったのかもしれない。
集中しなければならないのに、袴の裾の汚れが気になって仕方がないのが悪かったのか。
いや、いと畏きところからの下賜品を乱暴に扱った罰があたったのかもしれない。
「申し上げます!」
上座の位置から廊下までは、かなり距離がある。
百人以上の大人が並び、その声を遮る壁になったのか、張り上げられた声は遠かった。
皆が一斉に、また何事かと背後を振り返る。
嫌な何かが起こる時、必ず誰かが「申し上げます」と申し送りをしてくるよな。
勝千代はそんな事を考えながら、じっと廊下の先を見据えた。
「甲斐武田が国境に布陣しているとの急使が参っております!」
がたり、と皆が一斉に腰を浮かせた。
「またか!」
そう呻いたのは葛山殿だった。
またか、ということは、勝千代が知らないだけでずっとその危機があったのか。
あるいは幾度も繰り返されて攻め込まれていたのか。
「申し上げます! 富士軍より伝令! 至急援軍求むっ!」
「領内での火災多発! 救援を!」
続いてバタバタと何人もの伝令が駆け込んでくる。甲斐からの侵攻はそれほど強いのか?
ふと、井伊殿が口元に手を押し当てたことに気づいた。
合図などではない。
だが、勝千代は嫌な予感を覚えた。……まさか。
攻め込ませたのか? そう問いかけたくともここでは口にできなかった。
そんな事をすれば、一気に駿河衆を敵に回してしまう。
言われてみれば、あまりにもやすやすと朝比奈軍が動け過ぎた。それを可能にしたのは、駿府の守りが甘かったからだ。
そうか、河東及び甲斐国境で騒ぎが起こっていたのか。
そのうちの幾らかは井伊殿か、あるいは高天神城の引きこもりの仕事に違いない。
この状況下で、国人衆を集めている場合ではないのではないか。
勝千代は思いっきり顔をしかめた。
返す返すも、現場を無視した今川館の無茶ぶりに呆れた。足元に火がついているのに領主を招集するというのはどうなのだ。領主たちも、諾々と従っている場合ではないだろう。
「……のんびりしていられる状況ではなさそうですね」
勝千代はそう言って、扇子を握ろうと無意識のうちに腰に手をやり、その不在を思い出してしまった。一気に気持ちがまた不安定に揺れる。
いや、いくら大切な下賜品だからといって、扇子の心配よりも攻め込まれている状況のほうが優先度は高い。
「手早く済ませましょう。葛山殿はすぐにも向かってください。こちらも対応を急がせます」
立ち上がっていた大人全員が、はっとしたように勝千代の方を向いた。
その目は真ん丸に見開かれ、異様なものを見る目つきで見下ろしてくる。
お前らも「鬼子」と言いたいのか? 今更だ。
勝千代はトントンと膝を指で叩いた。
血だまりの上でいまだぶるぶると震えている文官たちを見て、軽く目を眇める。
彼らは文官だが、だからこそできることもあるはずだ。後詰や兵糧の手配など、いくらでもやることはある。仕事をしろよ仕事を!
「効率的に武田を押し返せる方法はないか」
「個別撃破では難しいでしょう」
井伊殿、口元がひん曲がっているぞ。楽しそうなのは結構だが、少しは内心を隠せ。
すでに何度も甲斐から攻め込まれたことはあり、そのたびに父なり朝比奈殿なりが押し返してきたはずだ。
そうか、朝比奈殿だ。
そう思った瞬間、「勝千代殿!」となんだか耳慣れてしまった声が聞こえた。
今思い浮かべていた当の本人の顔を見て、込み上げてくるのは安堵。
朝比奈殿はどこも怪我などはしていない様子で、珍しくストレートヘアを乱しながら肩で息をしていた。
長い廊下を全速力で走って来たのだろう。
「若君!」
続いて聞こえた驚くほどよく通る大声に、びくりと背筋が伸びた。
朝比奈殿の真後ろから姿を見せたのは、世紀の男前。……いや世紀かどうかは知らないが、とにかく周囲が一気にジャガイモの集団に見える程度には華やかな美形だった。




