43-5 駿府 今川館1
ちょっと待って。勘弁して。
勝千代は、ゆっくりとこちらを振り返った男の表情を見て、顔をしかめた。
弥三郎殿の血走った目は全開だった。
トリガーは朝比奈殿の拘束だろうが、それ以外にも何かあったに違いない。
朝比奈家の家臣たちの、ほっとした表情に何とも言えない気持ちになった。
「駄目じゃないですか」
勝千代がそう言うと、普段はのんびりした口調の男にぎろりと睨まれた。子供相手に大人げない奴だ。
「こういう場合は、先に手を上げたほうが悪いという事になるんですよ」
「この屈辱を黙って受け入れろと申されるか!」
「朝比奈殿はうちの渋沢が預かっています。酷い事にはなっていませんよ」
あいつは良識的な男だから。
弥三郎殿は勝千代の言葉などこれっぽっちも聞いていない様子で、ギリギリギリと歯ぎしりをして「殿に傷ひとつ負わせてみよ、三世まで祟ってやる」と非常に背筋が寒くなるような毒を吐く。うわああぁぁ……。
顔見知りの朝比奈家の家臣と視線があって、すがるように見つめられた。
え? これを何とかしろって?
「今から中に入って話を聞いてきます。絶対にこれ以上ものを壊したり、誰かに怪我を負わせてはいけませんよ」
どうして大の大人相手に、幼稚園児に言い聞かせるような事を言わなければならないのだ。しかも返答が唸り声って何。
「弥三郎殿」
勝千代は宥めるようにその名を呼んだ。
「朝比奈殿を謀反人にしたいのですか」
「先にあやつらが!」
「ええ、はい。わかっています。話をつけてきますから」
「縊り殺してくれるわ!」
駄目だな、完全に頭に血が上ったこの男の手綱を引くのは勝千代には無理だ。
ストッパーになりそうな配下もおらず、どうしたものかとため息をついた。
「わかりました、ではこうしましょう」
勝千代はちらりと天空を見て、太陽の高さを確かめた。
「少なくとも日が沈むまでは、動かないでください」
日没までにはまだ四、五時間はある。もとより、それ以上時間をかける気はなかった。
「傷ひとつ付けず朝比奈殿を放免させることをお約束します」
周囲からの、そんな約束をして大丈夫なのかという視線に「ちょっと早計だったかも」と後悔したが、いや大丈夫だと思いなおす。
それぐらいのプレッシャーがあったほうが、解決が早い気がする。
渋々と、本当に渋々という感じで約束させて、とりあえずあと数時間の猶予は得た。
今川館は広大だが、二千の兵で囲めない広さではない。もちろん、囲むと言っても物理的に円陣を組んでいるわけではなく、出入り口をすべて封鎖し、その封鎖している部隊を守るように幾重にも陣が敷かれている形だ。
勝千代は真正面の門の前に立って、そそり立つその立派な構えを見上げた。
いつかのように門の前に今川家の兵たちがいるわけではなく、物々しく槍を手に並んでいるのは朝比奈軍だ。
弥三郎殿の合図で、ギギギ……とその門が押される。
え、周囲を囲んでいるだけじゃないのか?
どうやら、既に正門は朝比奈軍が制圧しているようだった。
という事はつまりあれだ、門を破る時間を稼ぐどころではなく、すぐに攻め込める体制という事か。
何をやっているのだ今川軍。主城を守らずして何のための兵か。
あまりの不甲斐なさに不愉快になってきた。
こんな体たらくで、駿河遠江の守護家だと胸を張って言えるのか?
謀反がいい事だとはまったくもって思わないが、ここまで警備がザルだと狙ってくださいと言っているようなものだ。
さすがに敷地内にはこちらに槍を向けている者たちがいたが、どう見ても及び腰で、士気も低そうだった。
その先頭にいる顔には見覚えがあった。前にもここで勝千代を足止めした男だ。
勝千代がその顔を認識すると同時に、相手もこちらに気づいたようだった。
名を何と言ったか……鬼瓦? いやちがう、茨木だ。
「久しいな、茨木」
鬼の名を持つ男は、ますます険しい表情で勝千代を睨んでいる。
お前らを助けに来てやったんだぞ。来なければすぐにも首と胴体が物別れになっていたかもしれないんだぞ。
勝千代のそんな内心にも気づかず、険しい表情を隠そうともしないが、弥三郎殿が何か合図でもしたのだろうか、朝比奈軍がざっと動く音がした。
振り返りたい衝動を何とか堪える。
あれだけの数がいるのに、土を擦る音が聞こえたのは一度。練度が高い軍の構えに、普段平和な駿府の最も平和な今川館を守っている兵たちは怯んだ。
「通せ」
「む、謀反か!」
「その口を今すぐ縫い付けてやろうか」
勝千代がそう言い終わらないうちに、後方から弦を鳴らす音がした。
「っ!!」
とっさに身をすくめなかったのを褒めてほしい。
勝千代は、みっともなく腰を抜かした茨木の配下たちを見下ろし、「やるならやると言って欲しかった」と内心の苦情を押し殺した。
勝千代と今川館の兵士との間には、十本以上の矢が突き立っている。
正門を占拠している朝比奈軍は、高い位置に弓兵を配しているようだ。
弥三郎殿が合図したのだろうが、心臓に悪い。
もう一度振り返りたい衝動と戦ってから、真っ青な茨木の顔面をじっと見上げた。
「福島勝千代が参ったと伝えるがよい」
これでもまだ通さないなら、本当に首が飛ぶぞ。今川館の人事より先に、殺気立った朝比奈軍の手で。




