43-4 駿府 福島屋敷4
もう一度着替えをした。余所行きの一張羅だ。
いい直垂かそうでないかは、袖を通した時の重さでわかる。金糸を使われていたりしたら重いのは当然で、染めではなく織りや刺繍で模様が作られても重量は増す。
勝千代的には服装などどうでもいいと言いたいが、まあ確かに、公式な訪問にTシャツに短パンで行くのは好ましくない。
いつもと同じ形状の直垂なのに、ずっしりと重かった。
いややっぱり、子供なのだから楽な装束で……そう言いかけて、ぎゅっと腰ひもを結ばれ「うぐっ」と呻いた。
福島家の紺は個人的マストだ。むしろそれ以外最近着ていない。三浦はいつももっと華やかな色をと文句を言うが、シンプルが一番しっくりくるのだ。
地味好きと言われているのは知っている。幸松はもっと子供らしい華やかな色味の着物を着ているから、余計にそう思われるのだろう。
重い重いと内心で苦情を言っていると、これまで甲斐甲斐しく勝千代の身支度を整えていた側付きたちが、一斉に引いて平伏した。
何事かと思ってこちらも背筋を伸ばすと、両膝立ちの三浦が、畏まって三宝を掲げ頭を下げた。
ちょっと待て。
勝千代は、同じように頭を下げている側付きたちを見まわして、その無言の圧力に抗おうとした。
それは高天神城の最奥に保管してあったものだ。
おいそれと持ち運べる物でもなかったし、飾っておくにも使用するにも憚りがあった。
きっと年に一度ほど存在を思い出すだけの、当家の家宝として秘匿されるのだろうと思っていた。
「是非ともお持ちください。寒月様よりの御申し付けに御座います」
白い絹布には菊の御紋。間違いなくその下にあるのは、四年前に畏きところから内々に下賜された扇子だろう。
そんなもの使えるか! そう言いたかった。
だが、三浦が寒月様から直接そう言われたのだとしたら、あの御方は福島軍敗退の連絡がきたその頃から、こうなると見越しておられたのだろうか。
勝千代は小さく息を吐き、驚きに目を丸くしている者たちを見まわした。
腹の底に冷たい重りのようなものを感じ、無意識にわき腹に手を当てそうになる。
いや、今その所作は相応しいものではない。
勝千代は下座側に移動して膝を折り両手を床についた。三浦が床の上にカツリと三宝を置く音がして、ゆっくり顔を上げる。
そっと菊の御紋が入った絹布をめくると、予期していた通り、美しい白木の扇子が姿を見せた。
四年前と何も変わらぬシンプルな誂え。包みの絹布以外の部分は特徴の薄いものだが、一介の田舎武士に過ぎない勝千代にとっては身に着けるなど恐れ多すぎる品だ。
「……汚してしまっては大変だ。やはりこれは」
「寒月様がお守りにと」
考えたくはないが、血しぶきひとつ付けただけでも、詰め腹を切って詫びねばならない。それぐらいの大層なものなのだ。
そういえば、四年前の曳馬城の決戦の際にも持って行かされたな。あの時は桐箱に入れてだったが……
ふと、誰かに名を呼ばれた気がした。それは父の声のようでいて、違った。
誠九郎叔父だ。
思い出すのはいつもの笑顔。そして、不器用に頭を撫でてくれる手つき。
……そうか、これから向かうのも決戦場か。
勝千代はいったん背筋を伸ばして扇子を見つめ、それからもう一度低く頭を下げた。
そして、はた目には無造作と見えかねない勢いで手を伸ばし、ぐっと扇子を右手で取った。左手で受け、もう一度上座方向に頭を下げる。
ためらいは消えていた。
慣れた手つきで扇子を腰に差し、立ち上がる。
「参りましょう」
いまだぽかんと口を開けたままの井伊殿を見て、静かに言った。
井伊殿が左後ろ、いつのまにか真っ赤な鎧兜の完全武装の逢坂老が右後ろ。
物々しくガチャガチャと歩く武士たちを、福島屋敷の者たちが引き気味に見送っている。
そろえて置かれた草履に足を突っ込むと、すかさず土井が鼻緒の位置を調整してくれる。
「中村」
呼ぶと、ここまでなんとかついてきていた家宰中村が、はっと鋭く息を飲む音が聞こえた。
「すぐにも動け」
踏み石の上に立ち、若干西に傾いた太陽を見上げその眩さに目を細める。
「猶予はないと思え」
これからの成り行きによっては、福島家の者たちがどういう扱いを受けるかわからない。
「ご安心を」
いまだ框より上にいる井伊小次郎殿が、はっきりとした口調で言った。
「何がございましても、御身内は必ずお守りいたします」
「小次郎は他の遠江衆のご家族と一度掛川に戻らせます」
息子の言葉に続いて、井伊殿が事情を説明する。
ああそうだな。井伊家の当主と嫡男が同じ場所で地雷を踏むわけにはいかない。
撤退するといっても、非戦闘員を大勢率いての事だ、時間もかかるし苦労も多いだろう。安全とも言い難い。
「よろしくお願いします」
「お任せを」
「陽動を行っている者に話を通しておきますので、時を合わせてください」
「はい」
勝千代は、しっかりと深く小次郎殿に頭を下げた。
小次郎殿も居住まいを正し、返礼する。
大勢に見送られ福島屋敷の大門まで歩を進めた。
外にはもっと大勢の、物々しく武装した武士たちがいた。
井伊軍だけではない、逢坂騎馬隊や勝千代の側付きたちも武装し身を改めている。
彼らにざっと視線を巡らせ、軽く頷いて。
一歩門から踏み出した瞬間、ドン! と一斉に槍尻が地面を突いた。
大地が揺れ、空気が震えた。
男たちが一斉に鬨の声を上げたのだと悟るまでに、しばらくかかった。
勝千代は、大げさだな……と苦笑した。
だがそれにより、引き返せない道を踏み出したのだと腹が座った。
「兄上!」
兵たちが動くガチャガチャという音に紛れて、子供の声が聞こえる。
足が止まりそうになったが、振り返らなかった。




