43-3 駿府 福島屋敷3
井伊殿は五百の手勢で福島屋敷を囲い、蟻の子一匹通さない構えでいる。
現状戦える者がほとんどいない福島家側は、ある者は恐怖で、ある者は怒りで、ずかずかと福島屋敷を踏み荒らす荒くれ井伊軍を注視していた。
パニックを起こして逃げ出さないのを褒めるべきか。いや、屋敷を囲っているから物理的に不可能なのか。
土足はちょっと勘弁してくれ。……そう苦情を言いたくても、口出しできる雰囲気ですらない。
北遠から勝千代を無事送り届けたのは井伊軍、駿府で本隊に合流してさらに警備を厳重にするのは当然。いかにも当たり前のように物々しく勝千代を囲み、離れないのだ。
もちろん勝千代には側付き及び逢坂騎馬隊、父がつけてくれた護衛などがついている。谷や市村らは手練れ中の手練れだ。だが寡兵なのは否めず、駿府に戻るまで井伊家に頼り切りだった。
それがいけなかったのか? 何かどこかで大きく勘違いされていないか?
何とか三半規管を宥め、身体を起こすことができるまで小一時間はかかった。
身支度を整えている間も、井伊殿はすぐそば、半開きの襖の向うには武装した井伊兵がいる。武装したままだぞ。鎧兜の完全武装。すぐにも戦えるよう全員土足だし。
「……それで」
声が刺々しくなってしまうのも無理はないと思ってくれ。
「何が起こっているのか話していただきましょうか」
「ご機嫌斜めですな」
勝千代の口調と、井伊殿の軽妙な返しに、青白い顔で控えていた者たちがぱかりと口を開けた。
もちろん、ずっと勝千代の側に居た者たちは変わらず無表情のままだ。
どう説明すればいいかわからないといったところだろうが、それは勝千代も同様だ。
井伊殿の話によると、帰還の報告をしに今川館に向かい、予定調和的に叱責を受けたそうだ。
あらかじめそうなるだろうと予測していた井伊殿は、用意していた花火をぶちかました。
例のペラ指示書と、勝手に伊勢殿と接触しようとした太っちょ文官からの調書である。
それをネタに、今川は伊勢殿側について、細川両家と敵対するつもりかと問うたのだ。
そもそもの主題である「伊勢殿に従え」という命令の違反如何ではなく、細川両家と対立することのほうに問題をシフトした。
しかも大きな声では言えないと称して、伊勢軍が叡山におわす帝を夜討ちに掛けた事を暴露した。今川が伊勢殿に御味方するのは勝手だが、そもそも井伊家は今川家の正式な家臣でもないのに、こういう大事に巻き込んでもらっては困ると言ってのけたそうだ。
正論だ。ガチガチに正論だ。
どのように正当化しようとも、帝に刃を向けるというのはやりすぎだと誰もが思うだろう。しかもその話を、大勢の駿河衆がいる前でやってのけたから、問題はひどく炎上した。
こういう大問題を、その場にいる誰も知らなかった事こそが焦点だった。
勝千代はぐりぐりと眉間を揉んだ。最近この辺りが酷く凝っている気が……違う、そうじゃない。
きっと今川館の某所は、秘密裏に事を進め、伊勢派閥として立つのは当たり前だという風潮を作ったうえで、立場を明らかにしたかったのだろう。
いや叡山夜討ちの件ではない。伊勢殿が立てようとした義宗殿のことだ。
新たな将軍の後見一族ともなれば、これまで以上の権威を誇れる。そういう目論見だったのだと思う。
隣の山から火事を見て、旨い汁を吸えそうだと思ったのだろうが、事はそんなに甘くも簡単でもないぞ。
「何故報告の場にそんなに大勢の駿河衆がいたのですか?」
勝千代が渋々とそう問うと、その時の状況を思い出したのか、井伊殿も顔を顰めた。
「我らを晒し者にして、叱責したかったのでしょう」
遠江の者たちを、駿河の重鎮たちの前で笑い者にしたかったのか。
実にくだらない。くだらなさ過ぎる。……だがそれが今川館だ。
駿河衆が喧々囂々やりあっているうちに、信濃との国境の砦が落ちたとの一報が入った。
その場にいる誰もが、そこを守っていたのが父だと知っていたから、すぐにも事実確認をするべきだという話になった。
一連の矢面に立たされていた朝比奈殿のもとに、掛川から千の兵が追加で送られてきたと聞いて、状況はますます混迷した。
これで駿府における最大兵力の保有者が朝比奈殿になってしまったからだ。
そのほかの誰もが、即戦に行けるほど準備が整った兵を率いてはいなかった。
戦をするにはいろいろな準備が必要だ。兵糧など後でもいいと思われるかもしれないが、そう言っていられるのは最初の一日だけだ。
ここまでなら、まだギリギリなんとかいつもの今川館だと言えなくもなかった。
今駿府が厳戒態勢になっている大きな理由。
砦の陥落を聞いた御屋形様が、発作を起こされたという報告が奥から上がってきたのが発端だった。
やれ福島のせいだ、詰め腹を切らせろ。そんな声が高まり、場を支配しようとした瞬間。
朝比奈殿がキレた。
ちゃぶ台返しならぬ、台パンならぬ、床ドンだったそうだ。
片膝を立てただけ。突き詰めればそれだけなのだが、床を踏み抜かんばかりのその音は、一瞬にしてその場を静まり返らせた。
「それでは今すぐにも兵を率い、砦を奪い返してまいりましょう」と言いおき、席を立った。
そこで誰かが朝比奈殿を引き留めようとしたのが良くなかった。
詳しく聞いたわけではないが、嘲笑か侮蔑の混じった言葉だったのだと思う。
冷静の塊のような面をしておいて、キレ方が恐ろしく早い朝比奈殿は、人を殺せそうな鋭い凝視でその相手を見据えたそうだ。
隣にいた井伊殿は、もちろん仲裁にはいろうとした。
断じて、誰も刀など抜いていないという。
それなのに事態は、謀反だ、反逆だという話にまで発展してしまった。
そんな馬鹿な。
「朝比奈殿は」
「渋沢殿が身柄を拘束し捕えられております」
まるで、父の時と同じではないか。
しかも、朝比奈軍二千が駿府にいるのに。
今川館の連中には自殺願望でもあるのか?
主君を奪われた朝比奈家が反発し、弥三郎殿が率いる恐ろしく沸点が低そうな軍勢が今川館を囲んでいるのだそうだ。
大変だ。




