43-1 駿府 福島屋敷1
「お勝さま、お勝さま」
ゆさゆさと肩を揺すられて、勝千代は渋々と目をあけた。
気持ち悪い。吐きそう。
ずっと馬上での移動はつらいものがある。いくら急いでいるからといっても、八歳の子供には厳しすぎる強行軍だった。
幾度となく馬替えし、結構なスピードを保ったままでの早駆けに、一日目が終わらないうちに平衡感覚が耐え切れなくなった。
平地部分だけならまだしも、曲がりくねり凹凸の多い山道のほうが多いのだ。
馬での移動は楽は楽だが、そこに車移動のような快適さはない。この時代の道は整備されていないところがほとんどなので、ただでさえ上下運動が激しい乗り物なのに、貧弱な三半規管がオーバーヒートした感じだ。
途中までは我慢したが、掛川を過ぎたあたりからグロッキー状態を隠せなくなった。
吐いたよ! 仕方がないじゃないか!
誰も何も言わないが、ずっと心配そうな目で見られている。
「駿府がもうすぐ見えてきます」
見覚えのある宿場町を越えると、なだらかな丘が続く。そこを抜けたら駿府だ。
「大丈夫ですか? 休憩しますか?」
そう言って顔を覗き込んでくるのは、本日二人目のタンデム係三浦兄だ。
勝千代は力なくかぶりを振って、再び目を閉じた。
半年ぶりの福島屋敷に到着したとき、勝千代はグロッキー状態を極め、まかり間違えば死体と勘違いされそうな有様だった。
故に、異様な雰囲気の街の様子には気づいていたが、ろくに気にも留めなかった。
人通りがほとんどなく、かつての曳馬を彷彿とさせる緊張感。それは市井の者ですら、この異常事態を察知している事を示している。
「……兄上!」
不意に耳に届いたその声に、死体になる気分を存分に味わっていた脳がぴくりと反応した。
それが異母弟の声だと察知した瞬間、ぐったりとしていた思考がようやく活発に動き始める。
何故ここに幸松がいるのだ。もうとっくに土方に避難しているはずじゃなかったのか。
「どうされたのですか! 兄上!」
うっすら開けた目に、涙目の幸松の顔がどアップで映った。かわいい。
……いやそんな場合ではなかった。
三浦に抱えられるようにして下馬した勝千代に、福島屋敷は騒然となった。
ざわざわと耳に届く声から、まだ結構な人数が屋敷内にいる事が分かる。
勝千代は超特急で奥に運ばれながら、何故だと強く唇を噛みしめた。
「……なんとみっともない」
「あんな貧弱な御嫡男では福島家は……」
しかも漏れ聞こえてくるのは、これ見よがしな悪意。
運ばれている者の耳にすら届くのだから、わざと聞こえるように言っているのだろう。
勝千代を抱えている三浦の腕に力がこもる。
「これはどういうことでしょう」
「まあまあ家宰どの」
聞き覚えがある声が頭上で往来する。
薄目をあけると、白エノキこと田所兄がいた。
「勝千代様はお疲れのようだ。少し時間を置きましょう。中村殿も言い訳のひとつでも考えたいでしょうし」
「なっ、なにを」
ぼんやりとした視界に、見覚えのある天井が映る。
ああ、福島館か。そう思った瞬間、避難させたはずの者たちがまだ駿府にいるという現実を思い出した。
「お勝様!」
跳ね起きようとして、口を押えた。
まだぐるぐると見当識が定まらない感じがして、強い吐き気に見舞われたのだ。
土井がすかさずたらいを差し出してくれたが、ぐっとそれを傍らに退ける。
「渋沢はどこだ」
ようやく絞り出した声は細く、若干震えていた。
込み上げてくる酸っぱいものを拳で拭い、顔を顰めている中村に目を向ける。
視線が合って、何故か驚いたようにその眉間の皺が緩んだ。
中村は四年前から福島屋敷の家宰職を務める有能な男だ。これまで勝千代に対して敵意を向けて来たことはない。生真面目そうだという印象が強い実務家だ。
「渋沢殿は今川館の方に」
「大切な用件を申し付けていたはずだ」
「招集を受けて行かぬわけには参りません。あの方は奥の方々に気に入られておりますので、なかなか戻してもらえない事はよく……」
「逢坂」
「は」
即座に、部屋の入口の方から逢坂老の応えが返ってきた。
見ると、逢坂家の男たちが複数、旅装を解かず物々しい服装のまま控えていた。
「今すぐ人員をまとめ撤退する準備を」
「かしこまりました」
「お待ちください!」
中村が声を張り、腰を上げかけた逢坂を止めようとしたが、一斉に向けられた険しい視線に戸惑った表情をした。
もしかして、伝わっていないのか。
勝千代は舌打ちしたい気持ちを抑え、逢坂老に行けと合図をする。
「勝千代様、今の状況は大変不安定なものです。遠江の国人衆が問題を起こし、今川館が揺れております。殿がいらっしゃらないのに勝手な判断で巻き込まれるわけには参りません」
「中村」
井伊家の兵を大量に引き連れてきたことへ苦言を言おうとしているのだろう。
勝千代は、おさまらない眩暈を堪えながら、中村の言葉を遮った。
「福島軍が大敗し、誠九郎叔父上が討ち死になされた」
目の前で、面長で生真面目そうな男が息を飲んだ。
「まことですか」
厳しい口調でそう問い返してきたのは田所だ。叔父の死はともかくとして、敗戦した事すら伝わっていないのか? それはいくらなんでもおかしい。
勝千代は、情報伝達の悪さだけでは片付かない状況に歯噛みした。
どこかで情報が遮断されている。
「父上も負傷なされた。左目を失ったそうだ」
「……なんと」
「殿は今どちらへ? ご無事なのでしょうか」
忙しなく質問してくる二人の様子に、とりあえずこの二人は敵対しなさそうだと判断し、少なくとも数日前に、渋沢宛に高天神城までの撤退を命じた事を告げた。
渋沢はもっと前から今川館に呼びつけられていたそうだ。
「書簡は届かなかったのか」
「そのような重要なものを、勝手にどうにかする者などおりません」
それだけではなく、福島屋敷に届く書き付けにはすべて目を通していると中村は自信たっぷりに言う。
それはどうかな、と思ったのは勝千代だけではないようだ。
難しい顔をした田所が、不穏な雰囲気で唇をゆがめている。
「今はそんな話は良い。すぐに身支度をして遠江に発て。猶予はない。手荷物もいらぬ」
「勝千代様!」
「事情は道中、事情を知る者に聞けばよい。高天神城まで……」
ふっと思い出したのは、片目の引きこもりの顔だ。
この件についてはあの男に一任していた。いや、厳密に言えば、渋沢が無事に皆を連れ出せるよう、陽動をする事だけを頼んだのだが。
まさか、あいつか?
いや、それとは別口で志郎衛門叔父からも伝達は行っているはずだ。その伝令が途中で握りつぶされたと考えるのが妥当だろう。
まだ口の中にある酸っぱい唾液を飲み込む。
落ち着けと、自身に言い聞かせて大きく深呼吸する。
「急がねば間に合わぬ。せめて幸松とお幸、お葉殿だけでも」
渋沢が動けないというのなら、こういう時にこそ馬廻り衆に役に立ってもらわなければ。
「いえ、それは」
なおも渋る中村の様子に、勝千代は苛立ちの目を向けた。
状況がわかっていないと叱責するべきなのだろう。だがそれより先に、ざわざわと表の方から騒ぎが伝わってきた。
「……見て参ります」
そう平淡な声色で言ったのは土井だ。
見れば、勝千代の側付きたちは、そろいもそろって額に青筋を浮かべ、怒りの表情を隠しもしていない。
「申し上げます!」
廊下から、素っ頓狂に甲高い少年の声がした。
部屋中の者が一斉にそちらに目を向けたが、土井が怒りに任せて勢いよく障子を開いたので、申し送りはそこで途切れてしまった。
だが最後まで聞かずとも、何が起こったのかはすぐに分かった。
「いや、どうも」
かつて幸松と散歩をした広い庭先から、井伊殿のやけに暢気に聞こえる声がしたからだ。




