4-1 上京 一条邸 離れ
「はっはっは」
思いっきり笑っているのは東雲だ。
勝千代の顔を見た瞬間に一瞬だけ眉間にしわを寄せたが、二言三言会話を交わした末に大声で笑い始めた。
「相変わらずやなぁ」
扇子は閉じたままなので、口元を押さえても笑っているのが隠せていない。
「最近、武家の横暴は目に余る思うとったのや……そういえばお勝殿も武家やったな」
挙句は肩を揺らし、もう一度勝千代を見てまた笑う。
「どんな顔しはったのか見てみたかったわ」
そこまで悪いことをしたつもりはないんだが。
勝千代の曖昧な表情を見て、東雲はまた笑いがこみあげてきた様子で含み笑う。
「吉祥殿は、ちょっと訳ありな子でな。赤ん坊のころに公家に養子に出されたんやけど、どうしても武家になるゆうて出戻りはったのや」
それにしては、礼儀作法に疎いようだったが……
「養子先が羽林やゆうのが気に入らんかったようで、えらい跳ね馬やゆうのは聞いとったよ。それがいつのまにか公方さんの弟やゆうて、大きい顔しはってなぁ」
元服もまだという事で無位無冠だが、実父と縁が深い武家が複数後見についているそうだ。
なるほど、先々代の将軍の派閥がバックについているから、ややこしい事になっているのか。
いや、それならばそれで、一条家まで味方につける必要はなかったのではないか?
羽林というのは、摂家より家格が下がるから、それで改めてその身分も欲したとか?
ふと、苦虫を噛み潰したような松田殿の異相を思い出した。
もしかしたら、その武家間の諍いを避けるために、なんとか吉祥殿を公家に戻そうとしたのかもしれない。
……考え過ぎか?
「そうそう、兄から書簡を預かって来とるよ。しばらくは動かん方がええのやろう?」
本当であれば昨日も一昨日も昼から訪問する約束をしていた。すっぽかしてしまったので、直接謝罪しに行きたかったのだが、権中納言様に止められたのだ。
なんでも、一条邸の周囲には正体不明の武士がうろついているそうで、おそらく勝千代が姿を見せれば噛みついてくるのではないか、と。
自身に降りかかる火の粉は払うけれども、藤波家にまで迷惑をかけるわけにはいかなかったので、涙を呑んで大人しくしている。
ああ、はるばる京まで足を運んだのに。
せめて添削だけはしてもらおうと、起き上がれるようになってからせっせと初日に貰った課題を量産している。
申し訳ないが東雲に持ち帰ってもらおう。
「今回の件、かなり大ごとになっとってなぁ。権中納言様が御上に奏上しはったみたいで、公方さんへ正式な苦情が行くんやないか」
「え、私の歯を折ったことがですか?」
「一条家に婿入りを断られたからゆうて、大あばれしたことや」
まあ、地方武士の子倅ごとき話題にも上がらないか。
勝千代は苦笑して、「そうですか」と肩をすくめた。
正直なところ、少しぐらいお灸を据えてもらいたいぐらいだ。
乳歯とはいえ奥歯は大事なんだぞ。
「それで、うちからの見舞いや」
「そんなお気遣い頂かなくとも」
「たいそうなもんやない」
東雲の兄君、藤波様が一筆書かれた、美しい扇子だった。
確かに元手は掛かっていないかもしれないが、当代随一の書家の作品だぞ。
勝千代がうれしそうな顔をしたので、東雲もにっこりと微笑んだ。
「似たもんを吉祥殿にお譲りなされた御方がおるのやが、かなりひどい態度やったらしゅうてなぁ」
あの手の子には扇子よりも太刀、あるいは菓子類がベターだよ。
だが嬉しくなくとも、笑顔で礼を言うのが礼儀というものだ。やはり厳しくしつけられた御子ではないのだろう。
「失礼いたします。日向屋佐吉が参っております」
三浦が廊下に膝をついた状態でそう声をかけてきた。
普通であれば来客中に別の客が来たことなど伝えには来ないが、あらかじめ取り次ぐようにと言っておいたのだ
「一条邸に五日六日お世話になりますので、何か手土産をと思うております。御助言を頂ければ有難いのですが」
「そうよなぁ」
手土産か、と思案しながら首をかしげる東雲は、商人と同席と聞いても嫌そうな顔はしなかった。もとより、そういう方ではないと知っていたからこそのセッティングなのだが。
「日向屋にございます」
廊下の遠い見えない場所から、佐吉が名乗りを上げる声がした。
この時代の商人は、武家にすら同列に並ぶことを厭われる身分だ。いくら東雲が気にしないとしても、公家は公家だ。佐吉の方で同席するのを遠慮したのだろう。
勝千代は立ち上がって、続き部屋の襖を開けた。
更にその向こうの障子越しの廊下に、小柄な人影が見える。
そっと障子を滑らせると、廊下に額を押し当てて平伏している佐吉がいた。
特に緊張しているようには見えないが、東雲を不快にさせないよう気を配っているのがわかる。
「そんな遠いとこにおったら話も出来ぬ。近う」
東雲は戸惑うことなくそう言って、白い狩衣に包まれた腕で手招いた。
赦しが出ても、佐吉は平伏したままで、続き部屋までしか入ってこなかった。
一度として畳から視線を上げない佐吉と、隣室で平伏している者がいても当たり前だという風な東雲と。
勝千代のいる場所を境に、くっきりと世界が違うのだと感じた。
これまでも幾度となく感じてきたことだが、改めて、この時代の身分の差というものに身がつまされる。
あのプライドの塊のような吉祥殿が、公家としての生き方を厭う理由もわかる気がした。
公家の身分を受け入れれば、羽林家のものとして扱われ、皇族だけではなく、摂家、清華家、大臣家に頭を下げ続けなければならない。
だが、武家の中では、兄以外に頭を下げる必要などない。
旨味を嗅ぎ分ける者たちが、こぞって吉祥殿を持ち上げ、はやし立て、「本来誰にはばかることなく武家の頭領の立場にいるはずなのは貴方様だ」などと言われたら、単純そうな子だったから、コロリとその気になってしまうだろう。
公方側が警戒するのもよくわかる。
……ああそうか、吉祥殿の存在を消してしまう事が、確かにこの事態を一番穏便に片付ける方法なのかもしれない。
「……お勝殿?」
少しぼんやりしていて、東雲の言葉を聞き逃してしまった。
心配そうに見られて、大丈夫だと苦笑を返す。
物事をできるだけ色々な目線で見ようと心掛けているが、最近己の思考がどんどんと武家寄りの、物騒なものになりつつある気がする。
子供の始末を「穏便」と考える日が来るとは、思ってもいなかった。




