42-5 北遠 砦3
勢いよく勝千代が駆け出すと、当然だが側付きたちも谷ら護衛も伴走する。
とはいえ子供の足なので、大人には全速力とは程遠かっただろう。かなりの急斜面と凸凹と下草の滑りやすさとで、よくぞ転ばなかったと思う。
「二木!」
勝千代が叫ぶと、まだ少し距離があったが本人が反応した。
ドクリと心臓が高鳴ったのは、二木のその片腕がだらりと垂れさがっていたからだ。
歩く速度がゆっくりなのも、足を痛めているからのようだ。更には顔に当てられた布も流血で染まっており、片目がふさがれていた。
満身創痍だ。それほど厳しい状況だったのか。
顔から血の気が引き、何と声を掛けて良いかわからず、「二木」と再び呼びかけると、片方だけ見えている目がこちらを見た。
相変わらず目つきが悪い。片目なので余計に藪にらみで、瞼がふさがっているのか開いているのかよくわからない。
視線が合って、一秒より少し長い間言葉に詰まった。
「……父上は」
何故この男が一人でいるのか。父は一緒ではないのか。
気性は捻くれているが、人一倍父への忠誠心が高い男である。間違っても、ひとり逃げ帰ってきたなどという事はない。
口を開こうとしない二木の、もの凄く言いづらそうな雰囲気を見て、ありえないと考えていた万が一が起こったのではないか。本当は父は死んでしまったのではないか。そんな危惧が溢れて、ぎゅっと鳩尾が硬くなる。
結論を言えば、父は生きのびていた。負傷はしたが、順調に回復してきているとの事。
八重河内城にいるという情報は古いそうだ。
今は遠山殿に招かれて、療養中だという。
療養中なのはまあいい。だが……招かれて? よくわからず首を傾げたのは、勝千代だけではないだろう。
段蔵は、父に命じられて諏訪や関家とやらに諜報に出向いているらしい。
無事の知らせを送るなと命じたのは父自身で、ここではまだ話せない事情があるようだ。
非常にざっくりとした説明だったが、皆に安堵の空気が流れた。
ちなみに、二木の負傷は帰還途中にかなりの崖から転がり落ちてできたもののようだ。
単純に足を滑らせたのか、追っ手がかかったのか。
そのあたりの事も、もっと詳しく聞かなければならない。
とりあえず、治療のために砦に向かう事にした。
土井にかつがれても文句も言えないほど疲労困憊な二木を、一刻も早く安全な砦に運びたかった。
ちなみに二木が非武装に見えたのは、崖下から這い上がる際に具足のほとんどを置いて来たからだそうで、唯一離さなかった刀は肩を貸している者が代わりに持っていた。
元来た山道を足早に下っていくと、途中、千野殿と諏訪の兵の後ろ姿が見えた。
ぐったりとしていた二木が、急にびくりと身を引き締めるのを見て、勝千代は目配せをして、周囲の者たちに肉壁のように二木が見えないように取り囲ませた。
負傷した二木に配慮したというのもあったが、怪我人を運んでいる様子を見せたくないと感じたからだ。
連中に些細な情報も渡したくないのは、単なる用心だろうか。それとも本能的な部分で、何か感じるものがあったのかもしれない。
諏訪の使者たちと一定距離を保ちながら山道を下る。
ほんの五分ほどで、砦が見えてきた。
土井の肩の上で、二木がほっと息を吐くのが分かった。
千野殿たちは砦を迂回するようなルートをたどるつもりのようだ。あれだけの数の兵士が詰める真ん前を、あえて通る必要はないと考えたのだろう。
だが忘れてもらっては困る。ここはいまだ遠江、今川領だ。
「……見届けよ」
勝千代自身は、砦への道をたどりながら、誰に命じるともなくそう言った。
軽く頭を下げて、分かれ道を別方向に向かう一団の後を追ったのは、木原と天野殿の配下数人だ。
国境にこれだけの遠江兵がいるのだから、お行儀よく信濃側へ引いてくれるとは思う。
だが、行動は監視されていると知らしめるのは必要な事だ。
肩の脱臼、上腕と左足脛の骨折。顔には大きな傷が残るそうだが、目は無事だった。
聞くだけで痛そうだと顔を顰めてしまったが、二木は安堵したような顔をした。骨はきれいに折れているそうで、再起不能を決定づけるような怪我ではないと言われたからだ。
だが後遺症もなく回復するには、時間をかけて療養する必要があるだろう。
勝千代は弥太郎の診察が終わるのを待って、二木の枕もとに座った。
二木も覚悟を決めたように勝千代を見て、若干唇を尖らせるような、口角を下げるのを我慢するような、複雑怪奇な表情をする。
「よく戻った」
何はともあれ、無事……とはいえないが、帰還を喜ぶべきだ。
そう思い言った言葉に、二木はくしゃりと表情をゆがめた。
隠しようもなく、泣くのを我慢するかのような、ひどく苦し気な表情だった。
「誠九郎叔父上の首は荼毘に伏した」
二木は頷き、大きく肩を上下させて呼吸を整える。
「殿からの御伝言を預かっています」
しばらくして、床の上で居住まいを正した男の声に、勝千代もまた下腹にぐっと力を入れた。
「三月以内に戻るので、その間は何があろうと国境をまたぐな……と」
言われた言葉の意味はわかる。その理由もおおよそ推察できる。だが感情が「否」と言う。
黙り込んだ勝千代に、二木は険しい表情を向けた。
「殿の御命令です」
重ねてそう念押され、「嫌」と言いそうになるのをギリギリで堪えた。
「助力は必要ないと?」
「はい」
「本当に三月でお戻りになるとは思えない」
二木は答えなかった。それこそが、父と源九郎叔父の抱えた覚悟だとわかった。




