42-2 北遠 消息2
高遠の兵は散り散りに撤退していて、幸いにも八重河内城に大挙して押し寄せたという事はなさそうだった。
その知らせに安堵すると同時に、どうして段蔵は戻ってこないのだと不安も増す。
父が生きているなら、砦を奪回したと知ればすぐにも国境沿いまで引くはずだ。あるいは動けない状態だとしても、知らせを寄こすだろう。
段蔵と会えていないのか? 何かもっと深刻な状況に陥っているのか?
深夜を過ぎてもろくな情報が伝わってこず、やきもきする時間がただ流れた。
勝千代は連日の徹夜に耐えかねて、数時間死んだように眠った。
まるで悪夢を見て飛び起きるように目を覚まし、きょろきょろと見回して、数時間前と何ら変わらない周囲の様子にほっと息を吐く。
「お目覚めですか」
宿直といってももう誰もがほとんど睡眠をとらない状況、そう声を掛けられて初めて、枕元という至近距離に南と谷が座っている事に気づいた。
二人とも小具足姿で、刀を抱き込むように抱えている。超厳重警戒態勢だ。
何かあったら起こせと命じていたから、変わりないのだろうが、改めて父の不在と福島家の危機的状況に身がつまされる。
万が一、勝千代も父も源九郎叔父も死んでしまったとしても、志郎衛門叔父がいる。幸松もいる。
だがそんな事は、考えても口に出してはいけない。
勝千代は黙って身体に掛けられていた小袖を横に退けた。刀を置いて立ち上がった南が、準備されていた着替えを部屋の隅から持ってくる。
誰も一言も言葉を発しなかった。
ただ黙々と身支度を整え、珍しく今日は南が髪を結いなおしてくれた。
どうやら三浦兄弟や逢坂老はまだ眠っているらしい。連日の徹夜に疲れているだろうから、休める時に休んでほしい。
長身の木原が木襖を開けていく。
さっと差し込む朝日が視界を焼く。
美しい春の自然がパノラマのように広がり、長閑に鳴く鳥の声が、ひどく場違いな平穏さを醸し出していた。
いや場違いなのは、殺し合いを止める事が出来ない人間のほうか。
「……何か進展は」
「いえ」
端的な南の返答に頷きで返し、ため息は飲み込む。
その朝も何ら事態は動くことなく、時だけが過ぎた。
勝千代にできるのは書類の精査だけで、そんな自身の不甲斐なさに気持ちが塞ぐ。
もう何度も思ったが、どうして子供なのだ。どうしてこんなにも非力なのだ。
単騎で父を探しにあの山並みに踏み込みたかった。
せめて国境の砦に立って、その帰還を待ちたかった。
現代では簡単に通り抜ける事が出来る県境が、この時代では見えない巨大な壁のようにそそり立っている。
今この時にも危機に瀕しているかもしれないのに、その消息を辿り駆けつける事すらできないのだ。
「申し上げます!」
バタバタバタと慌ただしい足音がして、若い男がひっくり返った声で叫んだ。
「諏訪家からご使者が!」
書類を繰っていた勝千代の手が止まった。
ざっくりと説明を受けた信濃の事情をせわしなく頭の中で思い返す。
「兵の数は」
「三十程です!」
天野殿の問いに、その若い男が被さるような焦り具合で答える。
勝千代はぱたりと書類の束を閉ざした。
天野殿と目が合って、何とはなしに頷き合う。
「いらしているのは砦のほうか? ならばどこで話をしたいか意向を聞いて参れ」
細かな指示を出す天野殿を尻目に、ようやく動き始めた事態に深呼吸する。
諏訪家は、信濃全体でみても屈指の大身だ。
諏訪大社と聞けば、いくら宗教系に興味がなくとも小耳に挟んだことはあるだろう。諏訪家はそこの大祝を世襲する一族だそうだ。
政教分離などという考えがないこの時代、寺や神社が自前の領地を持ち、兵を持ってもおかしいとは思われない。
有名どころで言えば大和の興福寺や、本願寺派などもそうだ。
諏訪家は信濃で勢力を拡大し、武家化した。高遠家もその分家か家臣かだと聞いている。
つまり、本家本元が出てきた訳だ。
勝千代は静かに閉じていた目をあけた。
ここで間違えば、本格的に今川と諏訪の戦になるだろう。
父を無事に帰還させたいという思いと同じぐらいに、大きな戦の引き金を引くべきではないという理性が働く。
諏訪の使者は何の目的で来たのだろう。喧嘩を売りに来たにしても安易に買うべきではないし、かといって下手に出る必要もない。
何しろ、先に国境を越えてきたのは高遠の方なのだ。
勝千代はまだ握ったままだった書類を見下ろした。
こうなってくると、八重河内城に父がいるという事に重要な意味が出てくる。
父は八重河内城を攻めたのか? 城を攻略し奪い取ったのか?
理由状況如何によっては、信濃衆が宣戦布告をしてきてもおかしくはない。
「三浦の調書を用意しましょう」
勝千代の言葉に、慌ただしく指示を出していた天野殿が振り返る。
「三浦と高遠の結託は、諏訪殿も知らぬやもしれませぬ」
茄子顔がきょとんとこちらを見下ろして、その細い目がパシパシと数度瞬く。
「高遠の捕虜もひとり、連れて参りましょう」
弥太郎から全損の報告は来ていないので、まだ生きていると思う。
思案しながら話す勝千代の顔を、天野殿はまじまじとしばらく見ていたが、やがてほにゃりとしたいつかの笑顔を頬に浮かべ頷いた。
その場違いに緊張感のない笑みに、何故かはっとした。
「よろしいかと存じます」
うんうんと励ますように同意されて、ストンと肩から力が抜けた。




