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春雷記  作者:
遠江編

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42-1 北遠 消息1

 慌ただしく忍びが動いた。

 鈍感な勝千代でさえそれを感じるほどで、真っ先に弥太郎の異変が目に止まった。

 薬湯が入っていない空の湯呑みを持ったまま、慌てて立ち上がり、廊下に走り出て報告を受けている。

 何度も尋ねなおし、難しい顔をして、もう一度詰問して。

「……弥太郎?」

 勝千代がそう問いかけ、はっと振り返った二人の忍びの顔は、隠しようもなくこわばっていた。

「何があった」

 長い時間をかけて覚悟を決めた。何が起ころうが、父の嫡男として毅然と振舞うと心に誓った。

 それでも、もたらされるであろう知らせを聞くのには心構えが必要で。

 振り返った二人の表情に、どくりと心臓が不ぞろいな鼓動を刻む。

「申せ」


 刻限はまだ昼前。太陽は中天に至っておらず、冷涼な風が山から降りてくる。

 城の中では三浦軍への詮議が続いていて、まとまった量の書類の精査に勝千代も駆り出されていた。

 といっても、ダブルチェックの念のため要員なので、重要度は高くない。

 重ねられていた書類をわきによけ、戻って来た弥太郎に向き直る。

 常に飄々とした、とらえどころのないつるりとした面の弥太郎が、くっきりと渋い顔をしているのは珍しい。

 どう見てもよい知らせだとは思えず、ぎゅっと鳩尾が強張った。


「……遠山?」

 その名を聞いて真っ先に思い浮かべたのは、北条左馬之助殿のところの忍び使いだが、違った。

「土佐守殿は、八重河内城の城主にて、伊那衆のひとりです」

 そう教えてくれたのは、机を並べ同じ仕事をしていた天野殿だ。勝千代同様書類に目を通す係をしていて、長時間無言で紙をめくり続けていた。

 この男、見た目に反し文武両道で有能だ。こなす仕事が丁寧で早い。

 ただ、この数日間ずっと真顔で、トレードマークだった笑顔が一度もこぼれないので、周囲も扱いかねて腫れもの扱いにしている。

「その土佐守殿とやらが、討ち取られたと?」

 信濃の山奥で土佐守とはいかに。そんな疑問を感じながら問うと、弥太郎は神妙な表情で首を振った。

「討ち取られたのかまでは定かではありません。八重河内城が少数の兵で奇襲を受けたようです」

 想像していたような報告ではなかったことにほっとしながら、「そうか」とつぶやき思案する。


 最初は何も特別な感想はなかった。

 だが「少数の兵」。その言葉が頭に浸透した瞬間、バッと文机を押して立ち上がっていた。

 父かもしれない。いやきっとそうだ。唐突にそんな直感めいたものが降りてきたのだ。

 やけに強烈な確信だった。

 冷静になって考えると、信濃は多くの国人領主がしのぎを削る国情だ、小突き合いの争いなど珍しくもない事なのに。

 だがその時は、「少数で城を攻める」というキーワードが父の髭もじゃの顔と直結した。

 はっきり言って思い込みだ。危険な思考回路だ。


「詳しい事を調べております。もうしばらくお待ちを」

 弥太郎の冷静な進言も耳に届いてはいなかった。

 勝千代と同じことを考えたのだろう、福島方の者たちが腰を浮かせている。

「お待ちを」

 即座に駆け出しそうだった勝千代を止めたのは、天野殿だ。

 難しい顔をして、その茄子のように伸びた顎を擦っている。

「信濃に踏み込むのは早計では」

 あまりにも平静な顔で言われたので、勝千代は込み上げてくる怒りを堪える事が出来ず、無意識のうちに天野殿を睨んでいた。

 だが同時に、冷静な部分が「そのとおりだ」とも思っていた。

 福島家は今川の臣だ。勝手に戦を仕掛ける事が出来る立場ではない。いや、相手が先に砦を奪いに来たのだ。だから侵攻はあちらが先だ。だが……

「砦の兵は、高遠の者でした」

 天野殿の言葉が理解できるまでに数秒かかった。

 つまり、父の槍先を地につけ、誠九郎叔父を死に至らしめたのは遠山家ではない?

 急に、冷や水を浴びせかけられたような気がした。

 自身の考えなしの一言で、大勢が死地に赴く可能性に思い当たったのだ。

 深呼吸する。数秒置いて、もういちど深呼吸する。

 冷静になれ。考えろ。

 勝千代は息を吸って吐くことに意識を集中させた。

 しばらく繰り返しているうちに、跳ねていた鼓動が落ち着いてくる。


「申し訳ありません」

 勝千代の謝罪に、天野殿はようやくその唇にほのかな笑みを浮かべて首を振った。

「まずは何が起こったのか調べさせましょう」

 その通りだ。状況がはっきりわかるまでは、安易に行動に移すべきではない。

「……はい」

 勝千代は頷き、再び文机の上の書類に目を落とした。

 もはやそれに目を通す気力は失せていたが、冷静になるためにあえてしばらく書類仕事にいそしんだ。

 恐らくは今頃、段蔵が事の詳細を調べに行っているだろう。夕刻には大まかな事が分かるはずだ。そう思いながら、急く気持ちを何とか宥める。

 父だろうかと思えば思う程、書類をめくる手が止まりそうになる。

 こんなことではいけないと何度も首を振り、意識を書面に集中させようと試みたが……駄目だ。気になって仕方がない。

 顔を上げると、真正面から逢坂老と目が合った。天野殿もこちらをじっと見ていた。

 子供の短慮による暴走を危惧しているのかもしれない。

 もう一度書類に視線を落として、仕事に集中するふりをした。

 だが意識はそこになく、ずっと父たちの事を考えていた。


 その時、何故そのことが頭をよぎったのかわからない。

 ただ何となく、三つの砦と、材木を切り出したという山の立地を頭に思い浮かべ、遠山某という国人領主のいる八重河内城はどこにあるのだろうと考えただけだ。

 不意に、よくない感覚に見舞われてページを繰る手が止まった。

 いや待て。それはどうなんだ。

 思いついてしまったことに、一気に顔面から血の気が引く。

「……若?」

 気づかわし気に呼びかけられ、ぱっと顔を上げる。

「どうなさいましたか」

 どうしよう。どうすればいい。

 衝撃でとっさに言葉が出ない。

 近づいて来た逢坂老が、落ち着かせるように勝千代の傍らに膝をついた。

 皺深い顔で覗き込まれて、その黒い目をじっと見上げて。

 勝千代は急激に潤み始めた目を忙しなく瞬かせた。


「砦を追われた高遠の兵は、どちらへ向かった?」

 勝千代の言葉に、大人たちは息を飲んだ。

 もしかしたら遠江の北征軍は、砦から信濃の兵を追い払うと同時に、父が寡兵で逃げ延びている方角に兵を向かわせてしまったのかもしれない。

 それ故に、父たちは八重河内城に向かわざるを得なかったのではないか。

 勝千代の、最後まで言葉にならないその危惧に、答えを返す者はいなかった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 京都から帰ってきても息もつかせぬ怒涛の展開ですね!
[良い点] 京都からの疲れもあるので兵士は少しは休ませる必要はあれど、勝千代が確保出来た兵数は信濃勢力にとっても寝耳に水でしょう。今は拙速こそが何よりも重要だと思われますが、どうなる事やら。
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