41-5 北遠5
城の外観はほぼ往時を取り戻しているが、雪崩で崩れた物見櫓にまで手が回らなかったのだろう、山の頂上側は無防備だった。
本来なら、城の高楼で見張っている兵がいるはずだが……この状況になってようやく気付くというのはどうなのだ。油断し過ぎだろう。
勝千代は周囲の大人と同じように尾根の方向を見上げ、もはや隠れようともせず迫っている数千の兵に目を眇めた。
雪崩でほぼ壊滅状態になった木々は、青々とした茂みとなってもう一度山を覆い始めている。四年ではまだ低木にしかなっていないが、それがちょうどいい具合に接近を隠したのだろう。
「国境の出城にしてはお粗末だな」
勝千代の台詞に、返ってきたのは「そんな、どうして」という酔いも冷めたような震え声だ。
まあ、酔っ払いで戦などできそうにない千の兵対、倍ほどもいる精鋭の大軍だ。いくら堅牢な城であろうとも、何の準備もないままここまでの接近を許した段階で、守る方に分が悪い。
それにしても布陣が早い。広い国内から兵をかき集めるのにもっと時間がかかるだろうと予想していた。いくら慣れているとはいえ、山道を行軍するのにもそれなりに手間取ると思っていたのだが。
遠江の兵をかきあつめて二千……二千?
広く薄く布陣して、茂みに隠れて姿が見えないところもあるから多めに見えるのか?
「やけに多いですな」
逢坂老もそう言っているのだから、間違いなく当初予定していたよりも兵数が多そうだ。
「三千? いや四千?」
「……っ」
皺首を捻ってのその言葉に、声にならない悲鳴が上がる。
三浦の伯父ではなく、その辺にいるへっぴり腰の若い男だ。
おそらくは上級武士なのだろう彼の、あからさまな恐怖の色に、たちまち三浦の兵たちは恐慌状態に陥った。
仮にも千もの兵が詰めた前線の出城である。国境にも近く、常日頃から信濃の侵攻に目を光らせ備えているべき者たちのはずだ。
にもかかわらず、城を囲まれたというだけで震えあがり、あっという間に戦意を喪失するというのは、酒だけが理由ではなさそうだった。
真新しい武具。汚れひとつない小具足姿。それだけで一概には言えないが、多くが戦線に立ったことがない新兵なのではないか。
「なっ、何をしておる! この者どもをまず討ち取るのだ! 小僧を捕えればあ奴らも手を出せぬ!」
三浦伯父の声はひどく酒焼けしていたが、遠くまでよく響いた。
だがいかんせん、その指示に従おうとしたのは木田をはじめごく少数。それも、こちらのひと睨みで怯んでしまう弱腰ぶりだ。
「その前にそっ首飛ばしてやる」
普段は明朗快活な平助の、野犬が唸るような声など初めて聞いた。
いやそれ以上に、三浦兄の怒りを通り越した真顔のほうが恐ろしい。無言で突きつけた刃を、見間違いでなければぐいと押し込んだぞ。
「まあ待て」
同じ一族であることが恥ずかしいとばかりに、やみくもに伯父の首を刈り取りたがる兄弟を諫める。
「そのほうらの気持ちもわかるが、もうひとり決着をつけたがる方がいる」
「……間に合いましたな」
そう言ってうっそりと姿を現したのは、こちらも傷ひとつない真新しい鎧兜姿ながらも、どこか血の臭いがする天野殿だった。
特徴的な細長い顔立ちが、兜をかぶれば余計に強調され、いつものニコニコ顔だと滑稽に見えたかもしれない。まあ正直、似合っているとは言えない。
だが、兜から垂れるザンバラ髪といい、気のせいでなければ具足に血痕をつけたままの様子といい、暢気に酒宴を開いていた輩とは一線を画していた。
「お久しぶりですなぁ、三浦殿」
ざっざと聞こえるのは、勝千代らが通ってきた山道側から聞こえる歩兵の足音だ。
振り返ると、斜面の下の方から黒々とした軍勢が上ってきていた。
ずっと井伊軍の後方にいたのは天野殿ではなく、原家の軍勢だったはずだ。
だが……この顔で先に行かせてくれと頼まれたら、勝千代でも道を譲るな。
「投降せよ」
勝千代のその言葉に、反発したのは城主三浦だけだった。
ぽかんと、意味が分からないといった風にこちらを見る者はいる。子供の細い声なので、物理的に聞こえなかった者もいるだろう。
「従えば猶予はやろう」
だが、重ねたその言葉に一人が槍を放り出し、そうなってしまえば三浦の伯父の怒声など役には立たなかった。
兵数的には千もいるのだ。城という堅強な防御拠点もあったのだ。
井伊軍をここまで押し込ませなければ、戦い方はあったはず。
酩酊し、味方のはずだとまずは油断から入ったのも大きな敗因だろう。
重い完全装備で山道を登り切り、勝千代の側までたどり着いた天野殿が、普段の優柔不断っぽいにこやかさとは真逆の険しい表情で三浦の伯父を見た。
「ここは国境の出城だ。敵が攻め込んできた時には真っ先に対処するべき役割を持つはず。それを怠ったどころか、伊那衆と結託して砦を三つ明け渡した。楽に死ねると思うな」
「何をいうておるのだ馬面!」
勝千代には茄子のように見えている細長い顔で、天野殿はぬっと歯を剥いた。
「京に出向く前に、くれぐれもとお頼みしたはずだ」
「それは天野の分家が」
「ああ、あの慮外者は自裁した。恥ずべき取引を色々と語ってくれましたぞ」
天野殿は勝千代に向かって至極丁寧な一礼をしてから、武骨な脛当てで覆われた足を大きく振りかぶった。
顔面から一気に血の気を失せさせた三浦の伯父は、とっさに身をかばうように身体を丸める。
制止しようとする者は誰もいなかった。




