41-4 北遠4
大軍に囲まれた危機的状況だったが、比較的余裕があったのは、もちろんこちらの軍勢が実は百五十ではないからだ。
二千の遠江の国人軍はまだ三分の二ほどしか集まってきていなかったが、その陣構えはほぼ終了しており、いくつかの部隊にわかれてすでに動き出していた。
当初からの目論見である、駿河兵を陣頭に引っ張り出す、という案はちょっとやめておいた方がいいかもしれない。
さすがにこの酩酊具合では、千の兵が壊滅という洒落にならない結果しか見えない。
汚物処理をしたいわけではないのだ。
「親父殿は残念でしたなぁ」
だがその一言が聞こえた瞬間。
状況を見る余裕があった勝千代の頭に血が上った。
酒臭い息。いかにも酔っ払いの顔の赤さ。
ひん曲がった唇と、そこからこぼれる嘲笑に、怒りのボルテージが最高値まで振り切った。
だが、怒声を上げて刀を抜いたのは平助が先だった。
兄の方もいつのまにか抜刀しており、その切っ先は伯父の首元に突きつけられている。
「そんな事をしていいのか? 大事な大事な鬼子殿ごと死ぬ羽目になるぞ」
三浦伯父は「うはははは」と太い声で笑った。酒精による高揚と、向かってきたのはたった百五十だという油断と。
酔っているから刀を向けられても平気なのか、もともと豪胆な男なのかは定かではないが、明らかに三浦兄弟の覚悟を見誤っていた。
「やめよ」
勝千代のその制止がなければ、間違いなくここで酔っ払いの首は飛んでいただろう。
「勝千代様!」
普段はお勝と呼ぶ平助の怒鳴り声に、軽く手を上げて応える。
「伯父殺しをさせるつもりはないよ」
「……はあっ?」
勝千代の言葉に、三浦伯父は語尾が跳ねあがった腹の立つ口調で反応した。
「井伊もこれで終わりだなぁ! せっかく生き残ったのになぁ!」
「それはこちらの台詞だ」
井伊軍に動揺はまったく見られなかったが、小次郎殿はさすがに不快そうだった。
鎧兜で後ろ姿しか見えないが、持っている槍をドンドンと地面に突きながら幾らかの呆れの見える口調でそう言う。
「福島軍がどういう状況にあるかわかっていての酒宴、これをどう言い訳なさる」
「鬼がうろうろ勝手に飛び出して勝手に退治されたのだ、我らは知ら……」
その言葉は最後まで続かなかった。
勝千代の腕の一振りで、飛び出した福島家の者たちが一斉にその巨体を地面に引き倒したからだ。
「何をする!」
「黙れ」
冷ややかな口調でそう言ったのは逢坂老。
三浦伯父の背中に足を乗せ、そのわずかに残った髪を掴んで引っ張っているのは谷だ。
ここまで来るとさすがに、酔っ払いの三浦家の兵士たちも危機感を面に出し始めた。
何しろ己らの主君が地面に引きずり倒されたのだ。
たった百五十の兵が相手だと油断もあったのだろう。酔っていて状況の把握が甘かったのかもしれない。
いきなり大将がのこのこと出て来て、敵をあおりにあおった割には、その身を誰も守ろうとはしなかった。
こちらを見くびっていたのもあるだろう。いやそれよりも、三浦家の兵の質の問題か。
おろおろと、どうすればいいのかわからない様子で手をこまねいているのは、もしかしたらこの連中が戦に慣れた前線部隊ではないからかもしれない。
だが、酔っていない木田や少数の兵たちはさすがに焦り始めた。
「殿!」
まあいい。これだけの目があれば、後々言い訳も利かないだろう。
勝千代は逢坂老を従えながら、更に歩を進めた。
地面に転がっている三浦伯父は、近くで見るとよりうちの兄弟と似ていた。
パーツは同じなのに、その赤ら顔に感じるのは不快感。怒りに任せて殴りつけてやりたい衝動が起こったが、お子様なので堪えた。
代わりに取り出したのは扇子だ。
閉じたまますっとその赤ら顔に近づけ、仰け反らせた首に突きつける。
「……楽しそうで何よりだ」
「こっ、このような真似をしてただで済むと思うておるのか!」
勝千代はさらにぐっと三浦の伯父の顎を上げさせ、扇子の先でその頬をぐりぐりと突いた。
「見えるか? 酔っ払い」
「なにを……っ」
「あれは誰だ? 申して見よ」
谷により、少々無理な方向に首がねじられる。
その苦痛はもちろんあるのだろうが、若干距離がある欄干の先にぶら下がる芋虫が何か気づいたようだ。
三浦伯父ははっと息を飲み、口ごもった。
「申して見よ」
「し、知らぬ」
「知らぬわけがなかろう。伊那衆だな?」
「知らぬ!」
「申し上げます」
至極冷静な声が騒ぎを縫って耳に届いた。弥太郎だ。
どうやってか、この距離を飛んで来たかのような速さだった。
ひとりの素っ裸の男を小脇に抱え、手にはその着衣らしきものを握っている。
前にも思ったが、何故いちいち全部脱がせるのだ。武器を隠し持っていないかとか、その正体を見極めるための調査なのはわかるが、野郎の裸なんぞ見苦しいだけだ。
勝千代が嫌な顔をするせいか、その下半身に申し訳程度にまかれている筵。サイズが小さすぎるので、本当に局部しか隠れていない。
連れてきた芋虫は気絶していた。それが弥太郎によるものか、ここまで運ばれる際に失神したのかはわからない。ただ、無防備にだらんとなったその身体を、ポイと遺棄するかのように投げ捨てた弥太郎は、念のためというように男の剥き出しの背中に足を乗せた。
「伊那高遠家の士分のようです」
「ではもっと丁重に扱え」
父のことを何か知っているかもしれないじゃないか。
「まだ予備はおります」
ああうん、ぶら下がっている残りの芋虫のことだろうな。
ざわり、と空気が揺れた。
それは弥太郎の台詞のせいではなく、酔っ払いどもの目にも「あれ」が見えたからだろう。
「……なっ」
驚愕の声を上げたのは、いまだに奥殿のほうに首を捻られたままの三浦の伯父だけではなかった。
ここは堅牢な山城だが、山の中腹にある。攻め込む手立ては真正直に下からだけではない。
「な、な、なんだあれは」
尾根側から、遠目にもわかるほどの大軍が、すごい速さで迫っていた。




