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春雷記  作者:
遠江編

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41-3 北遠3

 ああ、ひどい目に遭った。

 勝千代はほうほうの態で息をついた。

 馬から降りるというよりも、滑り落ちるという感じになってしまったのは、一刻も早く硬い地面と再会したかったからだ。

 できれば大の字になって眩暈が去るまでじっとしていたいところだが、下馬してふらついた身体を逢坂老が支えたのでそれもできない。

 ……まあ、周囲からの目もあるので、みっともない様を晒さずに済んでよかったのだろう。


 勝千代がなんとか生還したと安堵の息をついでいる頃、部隊の先頭では緊迫感のあるやり取りが始まっていた。

 井伊と福島の人数を合わせても、多めに見積もって百五十。この場所が若干の斜面になっているので、先頭が大部隊と接触したのもすぐにわかったし、倍以上の数に取り囲まれ窮状にあるのも見ればわかる。

 下手をすれば壊滅の危機だし、そうなっても仕方がない現状ではあるが、そういう事に恐怖を抱くよりも先に、槍兵集団の爆走がとまったという安堵の方が強かった。

 しきりに腹をさすって深呼吸する。吐かずに済んで本当によかった。ギリギリだった。

 こちらを覗き込んでくる逢坂老の腕を軽く押して、大丈夫だと告げる。

 気持ち悪さは残っているが、眩暈はいくらか収まった。

 一触即発にやりあっている先頭を止めに行かなければ。


「相変わらず頭がお薄いようで」

 真っ先に認識した言葉がそれで、ひやっとした。

 もともとうちの三浦兄は毒舌気味の男だが、普段はそれを「感じのいい青年」というオブラートできっちり包んでいる。

 ここまで露骨に他者に喧嘩を売るところは初めて見たかもしれない。

 だが、他人様の身体的な事をあげつらうのは良くないぞ!

 勝千代は義憤に駆られて、戒めようと顔を上げた。

「相変わらず良い御気分のようで」

 ……言い直したな。勝千代の不興に気づいたわけではないだろうが、三浦兄は何事もなかったかのように言葉を続けた。

「このような時に酒宴でしょうか」

「これはどういうことだ。そこに居るのは井伊の嫡男だな。そなた何をしたかわかっているのか!」

 言いたいことはわかる。わかるが……皆の視線は一斉にその男のてっぺんに向いていた。

 丁度薄い雲の切れ間から光が差し込み、照り返す刃物のきらめきに混じって、そこもまた輝かしい。

 いや駄目だ。ジロジロ見るのはマナー違反だ。

 勝千代はひそかに、三浦兄弟のDNAについて心配したが、今はそれどころではないと飲み込んだ。


 三浦内匠助は、五十半ばほどのでっぷりと肥えた男だった。

 うちの三浦兄弟とは真逆の体形だが、その目鼻立ちは驚くほど似ている。

 並んでいると親子に見えるだろう二人の睨み合いは、誰の目にも親族同士の諍いにしか見えず、「井伊が攻めてきた?」「いやうちの殿の身内じゃないか?」というこそこそとしたやり取りが方々から聞こえる。

 勝千代は、気になるそのてっぺんには目を向けないようにしながら、三浦の伯父とやらの赤らんだ顔を見上げた。

 酒宴か。

 じわりと怒りが込み上げてくる。

 信濃の兵が、ここから半日の距離の砦を落としたというのに、どうにも兵に危機感がないと思っていた。

 上がこれだと、そうなるよな。

 羽をのばして楽しんでいたらしいその男に、一気に嫌悪感が向く。


「若」

 逢坂老に袖を引かれて、促された方向を見る。

 城の新しくなった奥殿のあたりに、見晴らしのよさげな回廊がある。そこに一人の男が立っている。豆粒ほどに小さな姿だ。

 弥太郎じゃないか?

 四年間毎日勝千代の側に居た男は、ひとりすくっと回廊に立っていて。その側の欄干にぶら下がっているのは、幾つもの塊。

 何やら芋虫のようにうごうごしているところを見るに、人間だろうか。

 思い出したのは四年前、今川館に乗り込む前の宿場町で、夜中に襲ってきた商人をまとめて軒先に吊るしたときの事だ。

 あいつらは悪人だった。それでも、寒空の下素っ裸はちょっとどうかと思ったものだ。

 ……まさかだが。

「裸で簀巻きとは」

 見えるのか逢坂。

 勝千代には、小指の先ほどのサイズの人間の詳細などわからない。

 だが逢坂が言うのだから、その通りの惨状なのだろう。……やっぱり裸なのか。

 弥太郎がそういう扱いをしているのだから、連中は味方ではないのだろう。たとえば三浦の重臣であれば、こんな時に深酒していたのだとしても、そこまでしないと思う。

 ……なるほど?


 歩き始めた勝千代の前で、槍兵たちが左右に避ける。

 福島家の奴ら並みに行き届いた動きだ。

 彼らがよけた先には、小次郎殿と三浦兄弟がいる。近づくと、むわっと濃厚に酒の匂いがした。

 酒を飲んでいたのは城主だけではなく。ここに駆けつけている連中も楽しんでいたらしい。

 匂いだけでも相当だが、その足元も定かではない酩酊ぶりは駄目だろう。

 いや、百歩譲って今が平時だとしても、真昼間から、臭いでわかるほどの酒量を浴びるほど飲むのは頂けない。

 北条兄弟との時にも思ったが、この時代の奴らは酒宴となると酒の量をセーブしないのだ。

 うちの場合は、半数は飲まないとか、そういう振り分けをきちんとしていた。

 だがここの出城の連中は、櫓の兵以外は結構出来上がっているように見える。

 これだけの兵数に囲まれていてなんだが、酔っ払い相手だとさすがに勝てそうな気がしてきた。

「……なんだそのわっぱは」

 よく聞けば、若干呂律が回らない口調だった。

 勝千代は周囲の福島兵がざっと刀に手を当てるのを制した。

「お初にお目にかかります。福島上総介が息、勝千代と申します」

「……くしま?」

 酒で充血したその目が、舐めるように勝千代を眺めた。考えが定まらない風に数回瞬きし、「あああの」と口にしてから顔を顰める。

「鬼子か」

 久々に聞く言葉だった。

 だがそれにより、この男がどことつながっているのかわかってしまった。

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福島勝千代一代記
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― 新着の感想 ―
[一言] まあ、死んだな、三浦某
[一言] おいおい死んだわ
[一言] あっ、こいつ(三浦某)死んだな
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