41-1 北遠1
幸松とその下の妹幸を高天神城に呼び寄せることにした。もちろん今となっては唯一の側室お葉殿もだ。
駿府の福島館は、あそこも大概人が多く、しかしほぼ文官ばかりで、本城に詰めている勝千代とはいささか縁が遠い。
だが福島家の家人であることは間違いないので、彼らにもまとめて避難を呼びかけた。
渋沢にくれぐれもと頼み、彼自身にも高天神城まで引き上げるよう命じた。
この先はスピードが命になる。今川館が父の状況を知らないうちに、福島館の撤退に気づかれないうちに、速やかに移動を済ませなければならない。
きっと福島館には間者が多く紛れ込んでいる。邪魔されず無事遠江まで来ることはできるだろうか。
脳裏に過るのは、年始に勝千代に挨拶をした幸松と、かわいい幸の顔だ。
二人を守るのは兄である勝千代の役目だ。
「目をよそに逸らせる必要がございますな」
そう言って暗く嗤ったのは隻眼の引きこもりだ。
肌が真っ白になるほど日の当たらない生活を続けている男の顔を思い出し、不安が募る。
人員が不足しているからといって、アレに献策させたのは正しかったのか。
よくわからない男だ。
何故か当然の顔をして風魔忍びを動かし、渋沢らが撤退しやすいようにと手を尽くしてくれているのはわかるが、傍から聞いているだけで「ちょっとまて」と言いたくなる小細工を多用する。
これのすべてを管理できるのならばいいが、やりっぱなしになるものもあるのではないか。
危惧するのは、たとえば地下牢を解き放つ、駿府の町を燃やすというような、駄目出し確実な事もしれっとやろうとしている事だ。
立場を利用して、よからぬことを企んでいるのではと不安になる。
だが、信じるしかない。
勝千代が掛川に出立する前に会いに行き、くれぐれもと頭を下げると、勘助は化け物でも見るような目をしてこちらを見てから、つらつら危うい案を並べ立てた。
いや、そんなグレー色が強すぎる超絶技巧的策を求めているわけではない。
上げられた幾つかの案を却下し、確実そうなものだけ詰めるようにと頼み、あとはまるっと陽動の指揮を任せた。
勝千代が高天神城から移動する時間が迫っていて、ほかに任せる者がいなかったというのもある。
捕虜として囲っている男に頼むことではないとわかっているが、とにかく人員が足りていないのだ。
志郎衛門叔父には、掛川にいない国人領主たちに協力を要請してもらっている。
その他の重臣たちにも、城の防備を固めるとか、土方の町に事情を説明しに行くとか、もろもろの細かい仕事がある。
勝千代自身は、父と叔父たちを探すために北へ行く。
奇しくもそれは、四年前に父に抱えられて辿った道だった。
心配事が多すぎて、胃が痛い。
勝千代が腹を撫でると、いつもなら即座に出てくる薬湯もここ数日はない。
影供はついているが、弥太郎が出払っているからだ。
段蔵も弥太郎も、北へ向かった。
福島軍敗退の知らせを受けて、今日で三日目だ。
勝千代は殺気立った側付きたちと護衛、何故かひどく士気の高い井伊軍に囲まれて、山道を馬で進んでいた。
同乗者は逢坂老。ここ数日はずっとついてくれている。朝起きた時には側に居るし、深夜に浅い眠りから覚めても居る。いつ寝ているんだろう。
だが、御老体に鞭打つことへの心配は口にはできなかった。勝千代自身、よく眠れていないからだ。
こうしている間にも父が、叔父たちが苦しい思いをしているのではないかと、ぎゅうと胸が引き絞られる。
きちんと休んでくださいと、口をそろえて皆が言う。
そういうお前らこそ、少しでも横になれと言い返したい。
お互いに気持ちは同じとわかるから、黙って頷くだけだが。
夕刻の迫った山道を登っていくと、櫓がひとつ見えてきた。
なつかしい、かつて父と並んで眺めた物見櫓だ。
四年前の雪崩をしのぎ、寂しい雪景色の上にぽつんと建っていたその櫓は、今では新緑が青々とした広葉樹の木々に囲まれている。
物々しく火を焚かれた櫓に詰めているのは、三浦の兵か。
かろうじて武装はしているが、普段着に近いのは何故だ。
あまりにものんびりとした彼らの態度に、怒りを覚えたのは勝千代だけではないだろう。
耳元でギリギリと逢坂老が奥歯を噛みしめる音がした。
連中がこちらに向かって、誰何してくる。
その訝し気な様子にまた、苛立ちが募る。
ここから半日ほど行った砦が落とされたのを知らないはずがない。
福島軍がどういう状況に陥ったのか、いやそれ以前に、どれほど苦労して信濃兵を迎撃していたのか、たとえ一兵卒と言えども気づかないはずはないのに。
すっと馬首を先に進めたのは三浦兄だ。半騎下がって付き従う弟平助も厳しい表情だ。
「慮外者どもは我らにお任せを」
腹に響くほどの低い声でそう言ったのは、普段は明朗快活な平助だった。
どこに行っても弟気質で可愛がられるタイプの彼が、今はその後ろ姿が膨らんで見えるほどの怒りに震えている。
「三浦」
勝千代の子供らしく甲高い声を聞き、その名にびくりと反応したのは櫓の兵たちの方だった。
「喰うか」
ゆっくりとこちらを向いた三浦兄が、じっと勝千代を見てからようやくその強張った表情に笑みを浮かべた。
「いいえ今さら。腹を下すに違いありません」
ここにいる三浦某かの首を飛ばし、成り代わるかとの問いを、三浦兄は微塵も迷いのない様子で退けた。
腹を下すか否かはわからないが、不要というのであれば勝千代が何とかするしかない。
「ならば福島家の者として動け」
三浦兄は頷き、毅然とした態度で前に向き直った。
「三浦内匠助殿に、今すぐ城から出て参れと伝えてもらおうか」
青ざめた兵士が転がるように遠ざかっていくのを見送って、勝千代は静かに深呼吸した。




