40-5 遠江 掛川城2
恐るべき熱量がそこにあった。
とてつもなく大きな力で押し流されていくような、圧倒されてなすすべもないような。そんな不安を抱かずにはいられない過熱ぶりだ。
だがそれこそが、勝千代が最も望んでいたベストな方向性だ。
遠江の国人衆は、信濃の兵が攻め入ってくることを良しとはせず、押し返すことにためらいを見せなかった。
先に今川館に許可を取るべきなどと、口にする者はひとりもいない。
勝千代は、強い眼差しでこちらを見ている側付きたちに視線を返した。
お互いに小さく頷きあい、とりあえずの難関は越えたと息をつぐ。
福島家単独では、父にすらせき止められなかった軍勢への対処など不可能なのだ。
「よろしいでしょうか」
この先の事についていつ問題提起するべきかと迷っていると、掛川城城代の棚田が声を掛けてきた。
この四年でちょび髭に白いものが混じり始め、若干肥えていたが。不在がちな朝比奈殿に代わって遠江の要所を守っているのはこの男だ。
変わらず控えめな口調で、そこに混じる不安は隠しようもなかった。
視線を泳がせ、場所を変えたそうにしているのに気づかないふりをして、勝千代は丁度天野殿が席を立ち空いた場所に座るようにと勧めた。
下手に個別に話すと、余計な詮索をされかねない。こういう時はなんでもオープンにいくべきだ。
「朝比奈殿の事か?」
勝千代が問うと、棚田はきょろきょろと周囲を伺いながら頷いた。
弥三郎殿もまた駿府へ同行している今、この場には朝比奈家の人間はいない。つまりはまたも、棚田が重要な意思決定をしなければならない。
彼の立場からしてみると、今川館に許可なく国人たちが決起したこの状況を、黙って見ていていいものか判断に難しい所だろう。
「駿府の朝比奈屋敷のほうにも、妹君や幼い甥姪たちがいらっしゃいます」
徳川幕府では、大名の家族を江戸に住まわせた。人質の役割だった。それと同じことが、この時代でも行われている。
勝千代も忘れていたわけではない。父の大事に頭がいっぱいだったが、ここで派手に勝千代が動いて、福島屋敷の幸松らがどうなるか。
すぐに彼らを駿府から引き揚げさせることは、下手をすると全面的な敵対行為になりかねない。
そもそもそういう動きを見せただけで、重臣の家族から人質へと扱いも変わってしまうだろう。
「朝比奈殿の御意向がはっきりしないうちは、掛川は動けないという事だな」
「いえ!」
城代として当たり前の判断だ、と勝千代が頷いたのを、棚田は大急ぎで否定した。
「殿が遠江への侵攻を諾々と見ているということはあり得ませぬ。福島殿のこともそうです。ただ、現状殿は駿府に居ります。兵は千程率いておりますが、今川館が準備していればそれ以上の数で迎えられるでしょう」
つまりどういうことだ?
「追加の千を駿府に送りたく存じます」
いいんじゃないか。
何故それを勝千代に聞いてくるのかがわからず、首を傾けると、「で、では五百……」と減らそうとしたので慌てた。
「ご当主一家の安全を考えるのは当たり前のことだ。存分に送られるがいい」
現在掛川城に残っているのは、二千程の兵力だ。そのうちの千となれば、朝比奈家の総力と言ってもいい。
近隣の国人衆は多くを帰らせた後だし、遠方の者たちも半数程度は返す算段をしている、あるいはすでに帰しているだろう。
もとより、北遠へそれほど多くの軍勢を送るつもりはなかった。
侵略してきた信濃衆よりも、味方であるはずの駿河衆を警戒するほうが重要だなどと、情けない限りだが。
天野殿の話は事実で、実際に千の兵力が出城に詰めているのだと聞いた。
駿河衆の千だ。
こいつらを最前線に蹴り飛ばし、信濃衆を押し返す主力にするという合理的な策を取るならば、これから北遠に向かうのが寡兵でも十分事足りるだろう。
「福島屋敷の方にも御声掛けをさせていただきましょう」
気を遣う棚田に、勝千代は首を横に振る。
駿府には渋沢がいる。彼の職務は福島屋敷を守る事だけではなく、町そのものの防衛も兼ねており、数的には五百を超える。福島屋敷の幸松らを守ることは可能だ。
「いやそれならば、他の方々のご家族をまとめてお守りする算段を」
勝千代の言葉に、はっと息を飲んだのは、義憤に燃えていた他の国人領主たちだ。その全てではないが、多くが駿府に屋敷を構え、家族をそこに住まわせている。
「駿府を出るか否かは、どちらがいいとは言えぬ。よく相談を」
「もちろんです」
国元に全員で引きあげてしまえば、それこそ叛意と断じられるだろう。
無事に事が収まる前提ならば、余計な禍根を残すことになるので、駿府に留まる方が良いのだ。
棚田が足早に去って行く後ろ姿を見送って、勝千代はしばらく思案した。
駿河と物別れになるのかもしれない。
それに対する恐れなどは感じていなかった。もともと勝千代自身の帰属意識が今川家にはないというのと、四年かけて徐々に心が離れ、今では「難癖をつけてくる厄介な相手」になり果てていたからだ。
冷静に考えているのは、もしそうなった場合、状況はどう転ぶかだ。
駿河衆と遠江衆が再び矛を交えることになるのか? 総兵力的には遠江のほうが有利だが、すべての国人衆がまとまるとは限らないし、今川館には北条家が……いや。
北条家の兵力二千がいまだ京にいる。
武蔵方面で忙しい北条が、今川に援軍を出すことが可能だろうか。
勝千代の脳裏に、引きこもりの片目男が言っていたろくでもない策が過った。
いや駄目だ。奇策は使いどころを間違えれば悪評になる。あいつは城の井戸に毒を投じて大量殺戮をしでかした、なりふり構わぬ効率重視の奴だぞ。数え十歳にして、悪名をとどろかせたくはない。
それに今一番に優先するべきことは、父と叔父たちの安否確認だ。たとえ今川館を攻め落とせる機会なのだとしても、それで父たちが戻ってくるわけではない。
勝千代は組んでいた腕をほどいた。
もちろん事を急ぎたい。だがここにいるのは勝千代の臣下ではなく、小さいなりにも一国一城の主人ばかりなので、話をまとめるには時間がかかるだろう。
取り急ぎ勝千代自身が北へ向かう旨を話し、あとの事は久野殿にでも任せようと結論付けたのだ。井伊軍がついてきてくれるなら、寡兵だが軍勢の形にはなる。
あとは千の駿河衆を動かせば、少なくとも伊那衆を追い払う事は十分可能だろうし、父を探すこともできるだろう。
勝千代は顔を上げ、そのことを口にしようとして……言葉に詰まった。
周囲からの異様な雰囲気の視線がこちらに集中していたからだ。近くの髭面が滂沱の涙で頬を濡らしており、仰け反りそうになった。
一瞬、聞き逃してしまった悲劇的な一報があったのかと肝が冷えた。
涙を拭い、「必ず福島殿を見つけ出しましょうぞ!」と口々に言っているところを見るに、そういうのではなさそうだが……待て、涙と鼻水がついた手を伸ばして寄ってくるな!
よくわからないが、大広間の熱気はさらに増していた。
喧々囂々意見が飛び交い、迅速に話がまとまっていく。
あっという間に二千もの兵が北遠に向かう事でまとまった。しかもそれは、ここ掛川にいる朝比奈軍を除いた兵数だ。
すでに配備されている駿河衆を合わせると三千、天野家からも兵が出るだろうから更に膨れ上がる。
目指す砦の場所は山岳地、伊那衆を相手取るには過剰すぎる戦力だろう。
ありがたい。非常にありがたいのだが……何が起こっている?
勝千代は助けを求めてこっそりと逢坂老らをみやったが、彼らも涙で潤んだ眼差しで、納得したようにうんうんと頷いているだけだ。
これは大人を頼れという事か?
勝千代はコテリと首を傾け、それもちょっと違うよなと頭を悩ませた。
旧岡部の城について、初期に参考にしていた城(裏鹿城)は少し条件に合わない気がしています。
別の候補、なにか御存知の方いらっしゃいましたらアドバイス願います。
この時代の情報少なすぎ。地元の方なら御存知かなぁ
出来れば周辺の砦の名称も御存知でしたら……




