40-4 遠江 掛川城1
想定しておかなければならないのは、遠江勢が動くことを渋った場合だ。
そうなれば、遠江にいる軍勢のほとんどを欠いた現状、勝千代にできる事は多くはない。
だが幸いにも、掛川に残っていた国人領主たちは、北遠の砦への急襲を深刻視してくれた。
特に、北遠を所領にしている天野七郎殿が、ひょうたんか茄子のように細長い顔を真っ赤にして激怒している。
なんでも今川館は、天野家の多くを引き連れ上洛させる条件として、国境の防衛に手厚い兵を送ると確約したそうなのだ。
勝千代の父が防衛ラインを抜かれた事よりも、自領を守っていたのがたった五百、しかも福島家のみに依存していたことに怒りを露わにしている。
ちなみに、地方にありがちな事だが、天野家といっても複数家あるらしく、勝千代が四年前に挨拶をうけた与四郎殿のほうは今回遠江に残っていた。十分ではないが、福島家の五百と力を合わせていれば、信濃伊那衆程度押し返せたはずだという。
更に。
「三浦内匠助殿は!」
ほぼほぼ怒声でそう声を張り、バン! と板間を手でたたいた。
「城の修繕と防衛のために千ほどは常に配備すると申しておりましたのに!」
勝千代は、背後で三浦兄が強張った表情をしたのをちらりと横目で見た。
四年前、岡部の城が雪崩で壊滅状態になり、代わりにその出城に入ったのは駿河衆で、今現在城主を務めるのは三浦氏だ。
かつては御屋形様の側近として遠江侵攻で功績を上げた人物だと聞いている。
うちの三浦兄弟とどういうつながりかというと……はっきり聞いたわけではないが、かなり近い筋の親戚だと思う。
三浦兄弟の父親が福島家に仕えていた事を考えると、ありがちな御家騒動的何かがあったのだろう。
この時代、上はやんごとなき辺りから下は商家や農民まで、御家騒動の話には事欠かない。
身代が小さいからといって揉め事がないわけではなく、受け継ぐものが大きければ大きいほどより苛烈なものになりがちだ。
血を分けた兄弟こそが最大の敵だというのは、冗談でも例えでもなく、現実の事なのだ。
うちも他人事では全くなく、庶子兄の件もあるし、現行でも幸松を嫡男にという意見が根強いのも知っている。
考えたくもないが、今川本家での後継者争いも無関係とは言えない。
右を見ても左を見ても、何がしかの諍いがあり流血沙汰に発展している。……世知辛すぎるだろ。もっと平和に生きていけないのか。
「急ぎ、我らは戻らせて頂きます」
上洛中は、常に温和な表情で、他家同士の取りまとめや仲裁役をしていた。その細長い顔にはずっと笑みがあり、こんな時代には珍しく穏やかな気質の奴だと好感を抱いていた。
だが、勝千代に向かってしっかりと頭を下げそう言った天野殿の表情は、ひょっとこ茄子ではなくきりりとした軍馬のように引き締まっている。
「戻り次第、砦に兵を出します。御父上の消息については、こちらでも手を尽くしましょう」
こめかみにビクビク浮いた青筋と、武家らしく猛々しい顔つきに、勝千代もまた険しい表情で頷きを返した。
「よろしくお願いします」
今現在、福島家が単独で動かせるのは、駿河にいる渋沢の兵と、逢坂老ら勝千代について京まで行った者たちのみ。砦を抑えている信濃兵らを押し返せるほどの兵数ではない。
北遠の有力者天野家にはっきりとそう言ってもらえたことに、勝千代の側付きたちがほっと安堵の表情をしている。
だが、遠江全体をまとめ率いるには時間がかかるだろう。無理とは思わないが、今川家に配慮する者も必ずいる。
そう覚悟をして、用意できる兵数について皮算用せぬよう冷静であれと自身を戒めていると、立ち上がった天野殿に続いて複数の領主たちもまた席を立とうとしていた。
「……今川館め」
「これがまかり通ると思うておるから下種なのだ」
「見ておれ、伊那衆など明日には追い払ってやる」
掛川城の大広間、事情を説明するために、上座に座っていた勝千代は、次々と立ち上がる大人を唖然と見上げた。
何だ。何が起こっている。
「申し上げます!」
広間の外から、よく通る声で申し送りがあった。
「井伊小次郎殿が百の兵を率い、福島勝千代様に御目通りを願っておられます」
井伊家の嫡男だ。
勝千代は無言で立ち上がった。
思い出すのは、年始の挨拶をしたときに向けられたにこやかな顔だ。父親に似ず知的で優男風の見た目だが、性格はその父よりも厳しい所があるのは気づいていた。
この状況を止めに来たのかもしれない。井伊殿の嫡男にそれをされると、きっと流れが変わってしまう。
やがてすり足で広間に現れた小次郎殿は、たった今上洛から戻って来た者たちよりもなお厳重な武装を整えていた。
鎧兜をしっかりと身にまとい、勝千代の前でガチャガチャと音をたてながら片膝を折る。
「御父上の事、お伺いしました。北の砦に出向かれるのであれば、我らがご身辺をお守りいたします」
目深にかぶった兜の下で、影になっているその眼光がギラリと光ったような気がした。
……誰だよこの男を温厚だなどと言ったのは。
「井伊殿が今川館から無事に戻られるのを待たれた方が良い」
勝千代は立ったまま、鹿の角がついた兜を見下ろして言った。
こ、断ってしまったのはその目つきがあまりにも恐ろし気だったからではないぞ!
今この状況になっては、今川館へ出向いた井伊殿や朝比奈殿が無事に戻ってくる保証はない。
誰の目にも二人は勝千代と、福島家と親しい仲に見えるだろう。だとすれば、助力できないよう足止めする可能性はおおいにある。
小次郎殿は、子供に向けるものでは到底ない目つきで勝千代を見上げ、もう一度その兜の頭を下げた。
「父より、何かあれば迷わず動けと言付かっております」
「……それは」
一瞬の沈黙の後、広間にざわざわと喧噪が広がった。
誰の顔にも、先程までの逡巡の色はない。
小次郎殿は流れを止めるどころか、一石を投じより急流にしたのだ。
静かに頭を下げるその姿に、ぞわりと背筋にしびれが走る。
たった今、何かが決定的に変わったのを感じた。
それは勝千代の運命だったのかもしれないし、歴史の転換点を踏んだせいだったのかもしれない。




