30-9 東海道 南近江国境 今川軍
五千と五千の兵が交差する瞬間というのは、適度な距離が開いていたとしても緊張感があるものだ。
丁度山間の狭まった盆地だということもあり、用心深く距離をあけて、まるでテリトリーを侵すのを恐れる動物のように奇妙な動きですれ違った。
その最中、互いに刺激し合わないよう、粛々と前だけを向いての行進だった。
「……気になりますか」
しきりに首を巡らせている勝千代に、逢坂老がそう問いかけてくる。
勝千代は、はっと我に返った。じろじろ見てはいけないと言われていたのだ。
それでも見てしまうのは、相手の様子が酷くくたびれたものだったから。
比較的余裕がある今川軍に対し、六角軍は見るからに士気が低い。足取りも重く、速度も一定ではなく、槍を杖のように突いている者すらいる。
「兵糧が足りていないのでしょうなぁ」
逢坂老の言葉は気の毒そう……では到底なく、むしろ心から楽しそうなクツクツ笑いを含んでいた。
六角軍のその状況に、まったく責任がないわけでもない勝千代は、複雑な心境ですれ違う男たちを見やった。
飢えるというのは苦しいものだ。身に覚えがあるだけに、つい腹を撫でてしまう。
「なに、死ぬほどにはなりませぬよ」
兵糧が足りないとはいえここは畿内、金さえ積めば譲ってくれる家もあると逢坂は言う。
だが、六角が他家に頭を下げるかと問われると、どうだろう、プライドが邪魔をしてできないのではないか。
「長綱殿はあれを足止めにつかうつもりだったのか」
「京極をかくまったと難癖をつけさせようとしたのでしょう」
「うちとはまったく関係ない家なのに」
「そんなもの、縋りつきたい京極にも、難癖をつけたい六角にも関係ありません」
すれ違っただけで喧嘩に巻き込まれるようなものだ。おお怖い。
勝千代はなおもちらりと六角軍の隊列を眺め、首を振った。
「京極殿はわかる。北条もわかる。だが六角がうちを足止めする理由は?」
「それはまあ、うちが引いている小荷駄隊でしょうなぁ」
「それにしてもだ」
「背に腹は代えられぬのです」
はっきり言わないで欲しい。
今川軍は、これから遠江までの長旅ということもあるのだが、そもそも弥三郎殿が兵糧を引く小荷駄隊にこだわっているので、やたらとその部隊数が多いのだ。
腹を空かせた兵たちにとっては、垂涎の的だろう。
他家の兵糧にたかるなど、六角家にとっては恥に違いないが、難癖をつけた末に奪うのであればまあ……褒められたものではないが、ありえなくはない。
今の六角家は、それもやむなしと言わざるを得ないほど、大変な状況にあった。
あちらこちらで国人領主が揉め事を起こし、国境でもややこしい事になり、近江商人が逃げ出した。何より軍を動かすのに必要な兵糧が底を突いている状態は危機的だ。
それら諸々が一度に起こったせいで、なにもかもがうまく機能していない。
こちらに五千の兵を向けたのは、今川北条の兵がここにいて、あわよくば兵糧が手に入るかもしれないと考えたからか。
六角は今川の兵糧を手に入れ、兵糧を無くした今川は京に引き返す。
誰にとは言わないが、そういう腹案があったに違いない。
だが残念。
うちは関係ないからね。責任はあの童顔にとってもらうといい。
内心そんな事を思いながら、山間の道をゆったりと騎馬で行く。
あちらも切っ掛けがないのに難癖をつける事は出来ないようで、指をくわえた態で小荷駄隊を横目で見て通るしかない。
注意深く距離を取ってはいるが、米俵を積んだ台車に視線が釘付けなのはバレバレだ。
問題はこの後。
体裁を保ち一応は行儀よくすれ違ったが、お互い背後を見せた状態からの、後ろを突かれる不安がある。
いくら飢えたからと言って、名門六角軍が夜盗が如き真似をするとは思えないが、用心はしておきたい。
……まあ、鬼のような形相の弥三郎殿が目を光らせているから、なかなか手出しは難しいだろうが。
大軍が近距離ですれちがい、その後徐々に距離をあけて行く。
緊張感のある空気だが、無事事もなく済みそうだ。
ここから一戦、という状況に持ち込むには、何かきっかけが必要になるだろう。
そんな隙をみせてやるつもりはなく、用心しながら軍を進めて行く。
もう一刻も早くこの国を出てしまおう。また夜が来て、余計な策をめぐらされてはかなわない。
考える時間があれば何か仕掛けてくるに違いなく、それを避けるためには物理的に距離をあけるのが一番いい。
ここから先は小国が続く。五千の兵は彼らにとってなかなか手が出せない大軍であり、粛々とお行儀よく通れば揉めごとも起こるまい。
もはや他所の軍勢が見えなくなってしばらく後、主に馬のための小休止を取ろうという時になって、段蔵が一通の書簡を持って現れた。
目の前に折り目正しく片膝をついて、いつにもまして畏まった風にその封書を掲げ持っている。
勝千代はそっと目を逸らしたが、長くはもたず、肩を落とした。
大体どこからかわかっているので、正直なところ見たくない、後回しにしたい。
だが周囲からジロジロと見られているので、やむを得ず受け取った。
宛先は勝千代だ。朝比奈殿ではないところに嫌な予感しかない。
「……なんですかな」
好奇心満載の井伊殿の視線に辟易しつつ、開封して……
そのままポイした。
しっかりした紙質の和紙が、ぺらりと風に流され飛んでいく寸前、キャッチしたのは弥三郎殿だ。
「燃やしてください」
「……はあ」
勝千代は白湯だけがぶりと飲んで、休憩は終わりと立ち上がった。
周囲の大人たちが書簡を覗き込み、ギョッとした風な顔をして勝千代を見た。
「見ませんでした。届きませんでした」
大体おかしいじゃないか。元服前の子供宛てに、釣書を送りつけて来るなよ。
そこには、左馬之助殿の娘さん(四人)の名や年齢などがつらつら書き連ねられていた。
こんなの絶対に嫌がらせだろ!




