30-8 東海道 南近江国境 今川本陣8
悠然と馬を駆り戻っていく後ろ姿を見送って、それは虚勢かあるいは諦めたのかと推察した。いや長綱殿のことだから、まだ何か企んでいるかもしれない。
勝千代は死屍累々と転がっている男たちを見下ろして、欠伸をかみ殺した。
やはり酒はほどほどにするべきだな。酔うにしても、陣中は駄目だ。
本気で行軍中の禁酒案を出してやろうかと思いつつ、のそのそと身体を起こした井伊殿に呆れの目を向けた。
もう少しで厄介事に巻き込まれるところだったんだぞ。
「休むなら寝床へ行かれては」
「……うまく行きましたかな」
気づいていたのか。
勝千代は、そのあまりにも酒臭い息に顔を顰めながらも、充血した目がしっかりと正気なのを見て取った。
「おおむねは」
井伊殿は緩慢な動きで頷いてから、強めに首を振り、似たような顔色の次男を振り返った。
「すまぬ、白湯を」
井伊殿はザルだった。ついでに言えば、朝比奈殿はワクだった。
二人とも酒精に酔ってはいるが意識ははっきりしていて、あれだけ飲んだのに、足元がふらついてもいない。
長綱殿の企みがどうなったのか知りたがったので、ざっと説明しておく。
京極某かは無事北条陣営に駆け込んだそうだ。三百のうちの五十だけだが。残りの二百五十は散り散りに逃走した。こちらはおおむね農民で間違いなかったようだ。
追手は事もなく五千の兵を迂回し、北条軍のほうへ向かった。抗議したのか、引き渡しを要求したのかはわからない。
うちには関係のない事だし。
逢坂がうまくやった。……実はそれだけではないのだが、口にはしない。
多少憚りあるというか、明言を避けたというか。
秘匿するほどの事でもないので、ついてくる二人を止めなかった。
勝千代は先導する段蔵の後ろを歩き、自身の寝床がある方向に向かった。行先は寝床ではなく、その先の森の中だが。
「……万事じゃないか」
そこに居たのは、見覚えのある大きな体躯の男だった。
最後に顔を見たのは駿河だ。岡部家の禄を食むことになったと聞いた。えらく出世したものだと話をしてから、まだ半年もたっていない。
「里帰り中でして」
きちんとした武士の身なり、武士の所作だった。
四年前はもっと野趣味のある喋り方をしていたが、すっかり主持ちの下級武士風だ。
「お役に立てましたか」
にっと犬歯をむき出しにして笑う、その表情だけにサンカ衆の名残があった。
ここは東海道。道行く旅人の数が日本でも屈指のメイン街道だ。商人の多くがこの道を使って地方に荷を運ぶ。
旅人が多いという事は、それなりに盗賊も多い。
京の治安が悪いだけに、このあたりにまで流れてくる無頼者は多く、例えば五千の軍勢ではなく二十の商隊であれば、次の宿場町にたどり着くまでに一度は襲撃を受けただろう。
石を投げたら茂みに盗賊が隠れていると言ってもいいほど、そういう輩が横行しているのだ。
その代表格、全国クラスに有名どころといえばサンカ衆だ。
山に逃げ込んだ貧困層の弱者が身を寄せ合い、次第に勢力を拡大して今の規模まで大きくなったといわれている。
四年前、サンカ衆はその生活苦から抜け出すために雇われ、今川の城を襲った。
万事とはその時以来の縁だ。さほど深い付き合いではないが、今なお細くつながっている。
その時に約定を結び、今川の領内での仕事はしない、という事になっているから、ほとんどが実入りのいい畿内に拠点を移したとは聞いていた。
故に絶対にこの辺りにいるだろうと、段蔵につなぎを入れさせたのだが……
やけにすんなり協力を取り付ける事が出来たのは、万事が里帰り中だったからか。
「何人集めた?」
「六百ぐらいです。子供や年寄りも入れてですが」
三百人の自称農民を脅かしてほしい。
そう依頼したのは数時間前。脅かすだけの仕事で、誘導は逢坂らにさせるつもりだった。
予想ではすぐに集まるのは百人程度、夜に紛れて襲い掛かるふりをさせる。戦わずに逃げて良いとは言ったが、安全だとは言っていない。
それに子供も動員したと聞いて、顔を顰める。
「お気になさらず。駄賃分の働きです」
提示した条件は米俵五個。六百人だと一日で食い尽くしてしまう量だ。
「倍出す。世話になった」
「それはどうも」
幸いにも今川軍の兵糧は多めだ。弥三郎殿が量の管理にうるさいのだ。
米俵十を渡すとなれば文句のひとつも出るだろうが、巻き込まれ遠江に戻れなくなるよりはずっといいはずだ。
万事は余計な事は話さず、頭を下げて去って行った。
勝千代の背後で、朝比奈殿と井伊殿がにらみを利かせていたからかもしれない。
その姿は木々に紛れてあっという間に見えなくなった。
背後の二人が何か尋ねたそうな顔をしているが、答えるつもりはない。
まあ、うまく行ったからいいのではないか。
あとは、長綱殿が状況を立て直す前にこの地を離れる事だ。
何か考えている風の二人をちらりと振り返る。
まだ顔が赤いが、明日の出立に障るほどではなさそうだ。
勝千代は寝床に向かう前に、逢坂たちの様子を見に行った。
彼らは既に帰参していて、夜の獣道を走らせた馬の手入れをしていた。
馬具や武具からも所属が分からないよう、だがしっかりと追っ手の武家だと思わせる装いのままだ。
「若」
勝千代たちに気づいて、声を掛けてきたのは逢坂ではなかった。普段は逢坂老の側付きとしてよく見知った男だ。
逢坂老はどうしたのだ、まさか怪我でも……と不安になったのが伝わったのだろう、ちらりと奥に目を向ける。
陣幕をめくって出てきたのは、小具足姿の逢坂の息子だ。
生あくびをかみ殺している。
「あ、若」
勝千代に気づいて慌てて居住まいを正すが、そののんびりとした表情に、親子ともども怪我などはなさそうだと安堵した。
逢坂老は既に寝たらしい。年寄には少々堪える夜だったようだ。
ご苦労様だ。




