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春雷記  作者:
京都編

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30-5 東海道 南近江国境 今川本陣5

 戦略的な点からいうと、今川五千の軍勢が手を引くという事は大きな意味を持つ。味方ではなくても、敵になるかもしれない相手としての抑止力にはなっていたからだ。

 だがそれが居なくなると、目の上のたんこぶがきれいさっぱり消えたようなもの。

 細川京兆家は伊勢殿排除に手加減しないだろう。もちろん和睦が成立しているので、表立っての戦にはなるまい。だがそれもここしばらくの間だけで、また何かきっかけがあれば戦火が再燃する可能性は大いにある。

 そうならない為にも、双方が同じぐらいの兵力で手出しできないようにするべきで……

 長綱殿の意見はごもっとも。勝千代もそうだろうな、と思う。

 だが、いつになるかわからないその再燃をずっと京で待つのか? その間の軍の維持費は誰が持つのだ。

 長綱殿の言い分は、つまり、伊勢派の権威保持のために身を晒せ、ということだ。

 今川館に問いただしても、同じ返答が返ってくるのかもしれない。

 だがその間の遠江は誰が守る?

 今川五千の兵といいつつも、実質は遠江の兵なのだ。


「御屋形様が真実そうせよと御命じになったのでしたら、従いますよ」

 勝千代はそう言って、きっぱりと首を横に振った。

「今川館からの指示にも、これ以上何かをするようにとはありませんでしたし」

 残念だが言質は取らせない。今さら京に引き返したりもしない。

 ずいぶん粘っているが、長綱殿。兵糧がないんじゃないのか? あまり長居しすぎると兵が飢えるぞ。

 

 春の日はすでに西の低い位置にある。このまま伏見まで向かっても、日があるうちには着かないだろう。

 うちの兵糧を当てにするなよ。これから長旅を控えているのだ。

「長く国元をあけるのは危険だと思うております」

 もういい加減うんざりしてきたので、並んで座っている対照的な兄弟に向かって率直に言うことにした。

 事情は知っているだろう? 言外に告げたその言葉に、左馬之助殿は顔を顰め、長綱殿は「それがなにか」という表情だ。

 勝千代はため息を飲み込み、いったいいつになったら帰ってくれるのだろうと、京流の客を追い払うと言われている作法を幾つか妄想してみる。

 茶漬けでも出せばいいのか?


 不意に、勝千代の周囲の大人たちの幾人かがパッと顔を上げた。

 まったく何も気づかなかったが、何か音がしたらしい。

 床几から立ち上がった井伊殿が、軽く頭を下げてから軍議の輪を外れる。

 左馬之助殿もそわそわ腰を浮かそうとしているが……駄目だぞ。そういうのは何が起こっているかが分かってからだ。

 真正面にいた長綱殿が腰の扇子に手を触れた。

 即座に反応したのはその側付きで、何を指示されたわけでもないがさっと頭を下げて井伊殿の後を追う。

 そして勝千代と視線を合わせ、明朗な表情で微笑んだ。

「六千の兵に何かを仕掛けるとは思えませんが」

 今さらっと今川と北条を合流させただろう。しないからな!

「報告を待ちましょう」

 勝千代がそう言い終わるより先に、陣幕の上の開いた部分から大きな塊が降ってきた。

 当然皆が警戒し、身構えるが、勝千代は弥太郎が目の前に身体をねじ込んできたのを見て、相手は風魔小太郎だろうと察した。


「武家が農民を追い立てております」

 珍しくその巨躯をきっちりと折り曲げ、小太郎は息漏れの多いかすれ声でそう言った。

 それだけを聞いたら、武家の暴虐としか思えないが、よくよく聞けば六角は内乱状態に突入したという。敵対勢力とみなす土地の者を追い立てるのは、当然とまではいわなくとも、理解できなくはない行為だ。

「庄屋が米を秘匿していたそうで」

 そこでちらりとこちらを見るのはやめて欲しい。

 勝千代は何もしていない。したのは宗滴殿だぞ。

 左馬之助殿も、口に手を当てない! まるで人には言えない事があるようじゃないか。


 農民たちはもちろん、追い立てられて必死で逃げているのだが、知らない軍勢に近寄ろうとはしていない。

 それなのに何故大きな音が聞こえてきたのかというと、追われている最中に川に渡してあった橋を落としたのだ。

 橋と言ってもロープと木切れを幾つかつなぎ合わせて出来た簡易なもので、川幅もそれほど広くはない。

 だが馬が渡るには深さがありすぎ、橋を落とすというのは頭の良い選択だとのことだ。

「追っ手の数は」

「百」

 勝千代の問いに即座に答えたのは小太郎。弥太郎がいささか悔しそうというか、険しい表情になっている。

「農民の数は」

「三百程です」

 仕方がないので弥太郎の方を向いて問いかけると、いくらかその目つきが和らいだ。

 いかにも戦忍、いかにも武骨者の小太郎とは違い、答える口調は端的だが丁寧だ。


 勝千代は少し夕刻の色になり始めた空を見上げて、思案した。

 助けるのは簡単だが、ここは近江だ。六角家と直接事を構えるつもりはない。かといって見捨てるのは気が重い。何しろ……うん、勝千代にも全く責任がないとは言えない結果だからだ。


「もうすぐ夜になる。追っ手の目を誤魔化してやれ」

 考えた末、勝千代が告げたのはそれだけだった。

 農民を保護するとも、追っ手を始末しろとも言っていない。

 そのざっくりとした指示に、何故か小太郎が頭を下げた。

 弥太郎がものすごく嫌そうな顔をしたのが印象的だった。小太郎が去るのをやけに険のある目で見送って、完全に姿を消したのを確認してから、彼もまた頭を下げた。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] うちらは幻庵がすごいという事しってますけど 作中の幻庵は指揮官でも無いし 身分的にも勝千代より低いのでは? 何故そんなデカい顔で他勢力を指図するのか分からない
[一言] 他家の癖に偉そう、この時代だと長生き出来ない筈なのに(関東での気風みても何故生き残れたんだこやつ
[良い点] 色々あっていつの間にかしれっと寄ってきた土佐犬(小太郎)VS不機嫌な先住犬の黒柴犬(弥太郎) ファイッ! 福島の陣の入口には【猛犬注意】の立札が必要ですよね。 あ、タヌキ注意もw […
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