30-4 東海道 南近江国境 今川本陣4
非常に疲れる話し合いが一段落ついたところで、何者かが本陣に向かって馬を走らせて接近しているという知らせが来た。
遠目には正体がはっきりしないと段蔵は言うが、たぶんわかっていたと思う。
忍び程視力が良くなくても、豆粒ほどの大きさの段階で誰だか判別がついた。
あれは北条左馬之助殿だ。
……なにやってるんだよ北条軍総大将。
単騎で駆けてきた左馬之助殿は、勝千代を見つけ少し離れた場所で下馬して、猛烈な勢いでダッシュした。
見晴らしのいい場所だったので、その酷く焦っている様を皆が唖然として見ていた。
誰も行く手を遮らなかったのは、十歩に一回のペースで躓き、転びかけ、その焦りを気の毒に感じたからかもしれない。
「すまぬ!」
開口一番、大声でそう叫び、勝千代の足元でズササと両膝を付いた。
「おおおお弟が」
跪くというより縋りつくような雰囲気で見上げられ、声にならない乾いた笑いがこぼれる。
勝千代は疲れ切って相当にひどい表情をしていたのだと思う。
それを見て真っ青になった左馬之助殿が、泣きそうな顔で何か言おうと口を開き、「おや、愚兄ではありませんか」という楽しそうな声を聞いて鋭く息を吸い込んだ。
そうだよ、左馬之助殿。あんたの弟はまだここにいるんだよ。
「長綱!」
弟の名を叫んだ左馬之助殿は、膝をついたままの姿勢で凍り付いた。
「おひとりですか? また単騎で? 盾役を少なくとも五人は連れ歩くようにと言うたではありませぬか」
たった数秒のやりとりで、この兄弟の力量関係が把握できてしまった。
正直なところ、兄弟そろって一秒でも早く今川本陣から出て行って欲しい。だがもちろん、そんな事は口にはできない。
大の大人が茫然とする様があまりにも気の毒で、勝千代は左馬之助殿の腕を引き立ち上がらせた。
「長綱殿が仰る通り、おひとりは危ないですよ」
ふらつきながらなんとか身体を起こした左馬之助殿は、何故か小柄な勝千代にぴったりくっついた位置から動かない。いや、くっついているというよりも、隠れようとしている。
誰から隠れるのかって? ひとりしかいないだろう。
「襲撃の知らせを受けて飛んでいらしたのですか?」
弟殿が心配だから駆けつけたのだろう? そう促すように言うと、カクカクと過剰なほどの回数頷く。
「ああ、そうだ。そう」
「弟君はご無事ですから、ご安心ください」
左馬之助殿は、「ああ」とか「うむ」とかうわごとのように繰り返し、視線を不自然に泳がせた。見るからにこの場から逃げ出したくてたまらない様子だ。
もはや怪我人の手当ても終わっているので、北条兄弟に関わる義理はなく、ここでハイさよならと追い出してもかまわないのだ。
だが、ニコニコ笑顔の童顔僧侶の言い分を聞くと、そうも言っていられない。
嫌な男だ、邪気のない少年の顔をして、正論をついてくる。
今川軍がこのまま国元へ帰る是非など、本来なら他国の人間に口出しできる問題ではないはずなのに。
今川軍の言い分は、与えられた任務は終えた。伊勢殿と細川家も和睦した。それで終わり。
だが長綱殿は、例のペラ指示書を直接見たかのように、それでは命令違反になるのではと、親切そうに尋ねてきたのだ。
いかにも心配しています、という口ぶりだが絶対に違う。
勝千代の思惑などわかっているはずだ。巻き込まれたくないので、最低ラインの義務を果たしてさっさと京から離れようとしたのだ。
いまだにがっつりと係わるつもりの北条は、そこに今川を巻き込もうとしている。
まさか下手を打った伊勢殿の後ろで糸を引く気か? そもそも義宗殿は北条の出だ。あり得ない話ではない。
「せっかく来ていただいたのですが、長く伏見を離れるのは問題でしょう」
勝千代は潔く左馬之助殿を見捨てることにした。
にっこり笑ってそう言うと、ショックを受けたような顔をされる。
だがよく考えろよ、何を期待しているのかわからないが、勝千代は他国の人間だ。対して、頬にえくぼを刻んで笑っている童顔僧侶は実弟じゃないか。
「日が暮れるまでに戻ろうと思えば、すぐにも発たれた方がいい」
「ま、まってくれ」
「ああ、遠山殿がいらっしゃいましたよ」
勝千代が遠くを見ながらそういうと、左馬之助殿は絶望の表情で背後を振り返った。
追手の騎馬は十ほど。先頭をものすごい勢いで駆けてくるのは遠山だ。
「勝千代殿」
左馬之助殿が、縋るように勝千代の名を呼んだ。
「このような時にこのような事をいうのもなんだとは思うのだが」
だったら言うな。聞きたくない。聞きたくないぞ。
勝千代はあからさまに腰が引けていたし、なんならすぐにも両手で耳を塞ぎたいぐらいだ。
嫌な予感がするのだ。
この先の言葉を聞いてはいけないと感じるのだ。
「勝千代殿」
内心の必死さを読み取ってくれたのは、やはり井伊殿だった。
「夜盗が出るのであれば、我らも警備等見直さねばなりませぬ。軍議をはじめますが、参加なさいますか」
する。するとも。
助け舟にほっとして、一歩そちらのほうへと足を踏み出そうとしたその時。大きな手がぐっと勝千代の肩を掴んだ。
そこに害意があるとか、敵対行為とかならうちの護衛も動いたのだろうが、左馬之助殿のそれはどう見ても、縋りつくような引き留めだった。
広い肩幅を強引に縮め、徹底的に長綱殿の視界から外れようとしているのはわかるが、無理がある。いい年をした大人が、いつまでも勝千代の背中に隠れていてどうするのだ。
大柄な左馬之助殿はもちろん勝千代のからだからははみ出たサイズだし、強引な引き留めは子供に対する暴挙だぞ。
「お勝殿!」
膝が崩れそうになるのを堪え、文句のひとつでも言ってやろうかと振り返った直後、なんだか急にフレンドリーに耳元で叫ばれた。
「うちの娘の婿に来ないか!」
絶対に嫌です!!
反射的にそう叫び返しそうになったのも、無理はないはずだ。




