30-2 東海道 南近江国境 今川本陣2
警戒する明確な理由があるわけではない。強いて言うなら「嫌な予感がする」だろうか。
両方ともにそれなりの規模の軍勢なので、不用意な衝突をさけようとした……というのは建前だ。
北条は今川の同盟相手だし、兵糧を融通したという仲でもあるし。
普通に考えて敵対される理由はないのだが、どうしても警戒心が先に立つのだ。
そして今川軍が総じて似た反応なのは、勝千代のそういう態度が原因だと思う。
だが十人ほどの負傷者が運び込まれてきた時、さすがにそんな事を言っている場合ではなくなった。
「容体は?」
勝千代がそう問いかけたのは、今川軍の従軍医だ。
軍医は難しい顔をして、「かすり傷ですな」と首を振った。
かすり傷でそんな表情をするか? 勝千代が問いただす前に、手伝いを頼んでいた僧形の薬師が悲鳴をあげた。
皆が一斉にさっとそちらを見て、顔を顰めた。
手当てを受けていた男が、その薬師を強く突き飛ばしたのだ。追撃でなおも怒鳴りつけようとしたが、すわ敵襲か?! と飛んで来た今川兵を見て、男は動きを止めた。
声が大きいので、何を言っているのか丸聞こえだった。
確かに、顔を顰めたくなるのがよくわかる。
今も、長槍を向けられたことに盛大な苦情を言っている。気が立っているからだとは到底言えない随分な態度だ。
偉そうな態度のその兵士は、伊豆の国人領主……つまりはもっと丁寧に扱われるべき身分なのだそうだ。……いや、勝千代がそう思っているわけではない。本人が口汚くそう言っている。
馬鹿じゃなかろうか。
勝千代は呆れ、話を聞くまでもないとその場を後にした。
北条の弟君はよもや、ああいう厄介者を押し付けようとしたんじゃないだろうな。
そう疑ってしまう程、不愉快な連中だった。国元から彼らを引率してきて、とうとう辛抱たまらず放逐することにしたのかもしれない。
「北条の従軍医が流れ矢に当たって死んだというのは、おそらく嘘ですね」
勝千代は傍らを歩く井伊殿をちらりと横目で見た。
この男は当初受け入れを反対していた。軍医を派遣するだけでいいだろうと言っていたが、その通りだった。
「適当に手当てをして、町か寺かに置いてきましょう」
同盟軍としては無下にはできない。皆で話し合ってそう結論付けたのだが、早急だったかもしれない。
なおも駄々子のような態度で暴れている音が聞こえる。
意図してそういう態度を取っているのならまだわかるが、あれが本性ならさすがに引く。何歳だよ。
「……目を離すな」
勝千代は、長槍をもって歩哨についている兵たちに、小声でそう命じておいた。
そんな露骨に嫌そうな顔をするな。嫌なのはわかるけど。
相変わらず隙なくピンと張られた陣幕の前に、ひとまとまりになった毛色の違う男たちがいた。
少年と言ってもいい若者が中心で、背伸びして見える尊大さで周囲を睥睨している。
今本陣には、北条の弟君が来訪していた。負傷者受け入れの礼を言いたいとの事だ。
対応しているのは朝比奈殿。皆軽傷だからそのまま持って帰ってくれと言ってくれないだろうか。
北条の若者たちが勝千代に気づき、みるみる間に不快そうな顔になった。表情もだが、目つきが悪い。おいおいまさか、子供相手に難癖をつけてくるわけじゃないよな? 他国の本陣だぞ。
「ここは見習いの小姓が来るところではない!」
危惧した通り、もの凄く尊大に、ついでに言えばかろうじて聞き取れる程度の強い訛りでそう怒鳴られた。挙句の果てには、しっしと犬の子を追い払うように手を振るモーション付きだ。
……突っ込んでもいいだろうか。
勝千代は呆れただけだが、それで済まないのがうちには大勢いる。
数えてはいないが、瞬き三回分の間もなかったかと思う。
傷ひとつない鎧兜の若武者に刀を突きつけるのは、うちの側付きたち四人だ。
同時に、陣幕の内側でも、ガチャンと何かが倒れる音がした。
カツカツと鎧が触れ合う音とともに、大股に近づいてくる足音。
おそろしく冷え切った朝比奈殿の表情を見て、勝千代はどう宥めたものかと困惑した。
いや、ちょっと落ち着け、な?
「朝比奈殿!」
えらく神経質な声がした。聞いた覚えがない声だから、北条方だろう。
「話の途中で離席なさるとは、失礼ではありませんか!」
若いが若すぎるほどでもない。にもかかわらず少年のような容貌という、なんとも表現しがたい童顔男が朝比奈殿の背後から現れた。
この男が左馬之助殿の弟殿だろうか。あまりにも似ていないのだが。
若く見えるのは、丸顔もそうだが、青々と剃り上げられた坊主頭のせいもあるだろう。
そう、その男は僧形だった。
武士を率いているのに僧形というパターンがやけに多いのは気のせいか? どちらか一方にしてくれと思うのは勝千代だけだろうか。
目が合って、気が合うタイプではなさそうだと判断した。
もちろんそんな事を面に出すような真似はしない。にっこりと笑顔を浮かべ、フレンドリーに接しようと口を開きかけ……
「そこな童子は朝比奈殿の御小姓ですか? このような場所ではわきまえるよう躾けませんと、後々困ることに……」
怒り心頭の朝比奈殿に更に燃料投下するような真似をしてくれた。
やばい。
朝比奈殿が、歩哨の腕から長槍を奪った。
周囲の誰も止めようとしないどころか、むしろ一触即発の様相だ。
弟殿はようやくそのことに気づいたようだが、遅すぎる。
「そこまで」
勝千代は大急ぎでそう声を張り上げた。
ギリギリだった。
幾人かの首に赤い筋が出来ているが……間に合ったよな?




