30-1 東海道 南近江国境 今川本陣1
その知らせを聞いたのは、釣りの真っ最中だった。
……いやだって野営地の側に川があったし。手づかみできそうな程魚が泳いでいたし。
午後のさわやかな日差し、揺れる木漏れ日、森を走る穏やかな風。
そこに清流のせせらぎが聞こえてくれば、釣りをしろと誘惑されているようなものだ。
勝千代は誘われるままに釣り糸を垂らし、水中に揺れる梅花藻や石菖藻を眺めて目を楽しませていた。
すでにもう二匹のヤマメを釣り上げていて、「これだよこれ」と上機嫌。
殺伐とした京から離れ、和気あいあいと行軍を続け、多少は気分が緩んでいたのかもしれない。
「……なんだと?」
段蔵からその報告を聞いて、ほわほわとしていた意識が一気に現実に引き戻された。
予感があったのかもしれない。
北条の援軍に兵糧の融通はすれども、すれ違う事すら避けようとした。
理由はもっぱら左馬之助殿の態度だが、それ以外にも感じるものがあったのだ。
「厄介な相手」だと思った。関わるとよくない事が起こると無意識に感じていた。
「状況は」
引きのない釣り糸を手元に引き寄せ、振り返る。
北条の援軍との距離は、まだそれほど開いていないはずだ。
人一人であれば、同じ道を歩いていたとしても出会わずに済むのも難しくはない。
だが五千と千の軍勢が、視認もできない距離でそれをするのは不可能だ。
勝千代ら今川軍は、北条の軍勢が向かってきているのを確認して街道を空けた。
つまり道を譲るために、今日は早めに野営に入ることにしたのだ。
十分に配慮したので、かなりの距離を開けての交錯だった。本陣付近からは視認することもできず、報告を受けて「そうか」と思った程度だ。
それから数時間、日差しはまだ高いが、太陽の位置が西に傾き始めた頃、今川軍はのんびりと野営をしていた。
兵たちにはそれなりに仕事があるのだろうが、お子様な勝千代にはぽっかりと時間が空いた。それで自然に誘われるまま釣りを楽しんでいたわけだが……
「混乱しているので詳細はまだわかりませぬ。ただ奇襲を受け、武将級が何人か負傷。急使が援護を求め伏見に走りました」
急ぐあまり、索敵をおろそかにしたのだろうか。あるいは……
勝千代は控えている土井に釣竿を差し出した。
両手で受け取った土井も、いち早くその場の後片付けを始めた三浦も、先程まで眠そうにしていた谷も、表情は険しい。
「罠だと思うか?」
弟殿が負傷したとして左馬之助殿を呼び出し、刺客に襲わせる? あり得そうだ。
「今川軍が躱したばかりだというのも気になります」
そうか、現場にいない者には、それがどこからの奇襲なのかわからない。
まさかうちのせいにされるとか?
「朝比奈殿へは知らせたか?」
「はい」
では皆集まっているだろう。
勝千代は頷き、平和の象徴のような清流を後にした。
勝千代は暢気にひとり釣りを楽しんでいたが、大人たちは当然だが仕事中だった。
長距離の行軍なので、何事もないのだとしても、気を配らなければならない事はいろいろある。
特にここは南近江、六角の直轄領は避けたが、安全だと断言できる場所ではない。
よもや五千の大軍を襲うとは思えないが、山賊も多いと聞くし。
勝千代が陣幕に近づくと、手前の所で、井伊彦次郎殿がその側付きと話をしていた。
勝千代に気づいた側付きは、その場で丁寧に頭を下げたが、彦次郎殿は相変わらず気難しそうに眉間の皺を深くした。
初対面から勝千代に対する悪感情を隠さない奴だったが、その態度は四年たっても一貫して不機嫌そうだ。だが最近、その渋顔も気にならなくなってきた。きちんと仕事をこなしてくれるのだから、気難しかろうが勝千代をどう思っていようが構わない。
特に声を掛け合う事もなく、二人の横を通って陣幕に入る。
中にはすでに朝比奈殿や井伊殿など、一通りの者たちがそろっていて、並べられた床几に座ることなく、皆難しい顔で話し合っていた。
ほとんど全員が小具足姿だった。軽く胴鎧だけ身に着けている者もいる。
勝千代が近づくと全員が一斉に身体ごとこちらを向いた。
片膝をつくような仰々しい礼は不要と言ってあるのだが、こちらを上位者と立てる礼儀正しい態度は変わらない。
「釣果はいかがでしたかな」
気軽に口を利いてくるのが井伊殿だけだというのはかなり寂しい。
「山賊?」
いやそんなわけないだろう。
段蔵からの詳細な報告を受け、勝千代が顔を顰めてそう言うと、朝比奈殿も大きく頷き、井伊殿も「ですなぁ」とつぶやいた。
そもそも連中は、武装した軍隊に襲い掛かってくることはない。
多少なりと「山の民」たちの事は知っている。彼らの多くは弱者なのだ。山賊行為は褒められたものではないが、そのほとんどが食うに困って村を捨てた農民であり、半数以上が女子供だ。
襲撃する対象は裕福な村だったり、護衛の少ない商隊だったり。勝てそうだと判断するまでは絶対に姿を見せない。
そんな者たちが、千の北条軍を襲撃した? しかも将兵の何人かを負傷させたと?
「ありえない」
もし本当に襲撃を受けたのだとするなら、それは山の民を装った何者かだ。
勝千代の断言に、大人たちも同意する。
「今ここで我らが大挙して駆け付けたとしても、逆に敵かと思われるやもしれませんな」
井伊殿がそう言い、難しい顔で顎をさすった。
「ですが近くにいるのは我らだけです。見ぬふりをすれば後で難癖をつけられるのでは」
そう言ったのは、遠江国人衆のひとりだ。
皆が一斉に首を上下させ、思案の表情になる。
「……少数で向かい遠くから、助力はいるか尋ねてみましょう」
結論は、積極的な救助に動くのではなく、とりあえずの様子見だ。
勝千代同様、誰もが北条の援軍とは関わり合いになりたくないと思っているのが、いかにも興味深かった。




