3-5 上京 一条邸5
公家の姫は表に姿を見せないという、前時代的な予備知識は持っていた。
今のこの時代においても、その常識はまだあるようで、公家の姫君の素顔を知っている異性は極めて限られてくる。
勝千代はおそらく幼馴染枠なのだろう。
勝千代の幼い外見も功を奏したのか、一条家の誰もが姫君との交流を問題視していなかったように思う。
だが吉祥殿は違ったようだ。
過剰に反応したのはお付きの女房たちで、相手が誰だろうか知ったことかと、まるで不審者であるかのように姫君を打掛で隠した。
更に状況が悪くなったのは、女房のひとりに抱かれていた童子が「うわあああん」と声を張り上げて号泣し始めたからだ。
「あにちゃ、め!」
顔を合わせたことはあるが、この年頃の子供の記憶に残るほど頻繁でもないし、一年もたっている。それなのに、若き一条家の御嫡男は畳の上に転がされている勝千代を身内だと判断し、吉祥殿たちを悪者だと思ったようだ。
こちらに向って、ふくふくとした小さな手を懸命にバタつかせ、金切り声のような大声を張り上げた。
幼子の絶叫には、警報ベル並みのインパクトがある。
しかもそれが、普段は機嫌のよい御子であればなおさら。
後方に控えていた侍従たちが一斉に駆けつけてきて、更に部屋はぎゅうぎゅうになってしまった。
豊満な体格の女房殿のひとりに押しつぶされそうになり、懐かしい通勤時の満員電車を思い出した。
あれもそうだ。立場年齢性別関係なく、とにかく一つの箱に押し込まれ、次の駅に着くまでその状態をじっと耐えればならなかった。
さすがの松田殿も、この状況で無礼だと怒りだすことはなかった。
ここは公家屋敷、明らかに身分が下に見える侍従であっても、武家とは違う系統とみなされているのだ。
なんだかこんなのばかりだな……と、部屋の大きさには収まり切らない人数にもみくちゃにされていると、不意に腹のあたりに腕を差し込まれ小脇に抱えられた。
それは、権中納言様の筆頭侍従の土居殿だった。元武士だけあって、すくい上げられた二の腕は太くがっしりとしている。
そのまま部屋から連れ出され、その見事な身体さばきに感心してしまった。
この男なら、東京の朝の通勤ラッシュでも平然と人波を渡っていけそうだ。
「勝千代殿!」
部屋を出てなおしばらくそのまま運ばれて、回廊を二度ほど奥に曲がったところで、一年ぶりに聞く少し太くなった声で名前を呼ばれた。
「小次郎殿」
土居侍従のお孫さんだ。久しく見ない間に随分と背が伸び、去年は貸衣装のようだった直衣姿がいっぱしの公家に見える。
「怪我をされたと聞きました。こちらへ」
案内された部屋には、三名もの、見るからに仕事が出来そうなお医者さんたちが待ち構えていた。
口を開けさせられ、蹴られた身体にもあちこち触れられて、ようやく一息付けた頃には、どうやら乗せられたようだと察した。
あんなタイミングで姫様が登場するのはどう考えても変なのだ。
万千代様がご一緒なのもおかしい。
あのような御身分の方々が、のこのこと、安全とはいえない場所に出てくるなど、周囲が絶対に許すはずもない。
それはつまり、権中納言様の御意向があってこそだ。
人の顔を蹴飛ばして奥歯を折るような乱暴者の前に、よく掌中の珠たちを出せたものだな。
すっと奥の障子が開いて、同時に、勝千代の身体を面白おかしく突きまわしてくれたご老人方がさっとその場で平伏した。
小次郎殿と土居侍従は、いつものようにその場で膝をつき、軽く頭を下げる程度である。
「どないや」
「はい。折れた個所はしばらく痛むでしょうが、じき生え変わりますので、先々支障が出るようなことはありませんでしょう」
「そうか」
権中納言様がほっとした様子で頷いた。
その背後からひょいとお顔を出されたのは、勝千代より一歳年下の愛姫と、姉弟でしっかり手をつないだ万千代様だ。
「あにさま、御顔がはれてはります」
「いたいいたいない?」
大きく口を開けさせられたせいで顎が痛い。本音を言えばずっとさすっていたかったが、我慢して「大丈夫です」と微笑む。
「先ほどは、お助けいただきありがとうございました」
「ええのよ。あにさまの御顔を足蹴にする悪い奴やもの」
フットワーク極軽な父親に似て、姫というには行動力がありすぎる。
これですでに婚約者がいるというから、びっくりだ。
吉祥殿が生まれて間もない姫君に婚姻を申し出たのには理由があって、一条の姫であれば、愛姫のようにあっというまに嫁ぎ先が決まってしまうとわかっているからだ。
ちなみに、お相手はとあるやんごとなき御方だ。奥方は複数がデフォルトの、武家の側妻制度よりも謎めいていてお近づきにはなりたくない世界だ。
姫はまだ年若いので、あと数年は親元で過ごすことが許されているらしい。
正式に嫁いでしまえば、こうやって親しくお話しできる機会も減るだろう。
それまでの短い時間、実家でのびのびと……って、ほぼ同い年なのに父親目線じゃないか。
「いたいいたい、めっよ」
非常にお可愛らしい御声がそう言って、勝千代の頬を指さした。
「ないないやよ」
なんだろう、この、反射的にニマニマしてしまう感じ。
二歳というのはこういう感じだったかな……と、今はもう遠い姪甥の事を思い出しながら微笑み、丁寧に頭を下げた。
やはり子供は愛らしいものだ。
どの子も等しく同じように頑是ない時期があるはずなのに、片や、人の奥歯を折るような乱暴者になってしまう者もいる。
万千代様には是非ともこのまま、アルファー波を放出し続けてほしいものだ。




