28-5 下京外 今川本陣1
五千の軍の陣払いともなれば、即日というわけにはいかない。
さらに大きな問題として、例の米蔵の事もある。
可能であれば、他所の誰かに引き継ぎたいところだったが、なかなか難しい。
誰の手に渡っても、碌な使い道はされない気がして、悩んだのだが、虫やネズミに喰われる前に換金してしまうことにした。
というのも、その量が問題なのだ。
二十万石ということは、米俵にして五十万個だそうだ。
さっぱり実感の湧かない量だが、数量からして簡単に捌けるものではないとわかる。
東京ドームの収容人数が五万五千人。その三倍半もの人数が一年間に喰う米の量だぞ。
さすが畿内の米の流通量だと言えば簡単だが、それを武家の子供である勝千代がどうこうしようとする方に無理がある。
朧げな知識で、江戸時代の一石が十五万円ほどだと聞いた覚えがあるので、それで単純計算したとしても……いくらだ? 三百億? あってる??
それだけの米があれば、よからぬ野心につながりかねない。
ただ単に懐を肥やすだけならまだいい。
下手をすると、それを火種に諍いが起きかねないのが恐ろしい。
一条権中納言様に丸投げし、帝の御為に使っていただこうかとも考えたが、井伊殿や朝比奈殿にも反対された。
一条権中納言様はともかく、周辺の公家衆が問題だと。
米の持ち主が定かでない分であれば、延焼した屋敷の修繕費などに使ってくれても一向にかまわないと思ったのだが、諭されて納得した。いったん手を離れてしまえば、その行く末がどこになるかなどわかりはしない……と。
額が額だ、巡り巡って、戦の種銭にされてはかなわない。
帝の御為に献金しようとは決めているが、それ以外の部分について、平和に平等に周囲に還元できないものか。
「無理ですよ」
兵糧方の帳面から顔を上げ、弥三郎どのが言った。
「さよう、無理かと存じます」
のんびりと握り飯を頬張りながら、井伊殿もまたうんうんと頷く。
「どこに持って行っても諍いが起きますぞ。勝千代殿が管理なさると良い」
「管理と言っても」
「堺衆に商売の種銭にしてもらい、増やした分を街の再建に献金させるというのは?」
弥三郎殿はちょっと考えて、眠そうな目を若干しょぼしょぼさせながら言った。
その意見にいまいちという風に顔を顰めるのは井伊殿。
「目減りせぬか?」
「佐吉というあの男、日向屋の総番頭ですよね。日向屋は手堅い商いをすると定評があります」
「そうなのか?」
勝手に盛り上がっているところ悪いが、怪しげな投資話にしか聞こえないぞ。
顔を顰めた勝千代を見て、弥三郎殿が眉を下げて笑った。
「今ならこっそり懐にねじ込んでも誰も何も言わぬでしょうに、勝千代殿は正直者です」
勝千代は、ギョッと目を見開き、とんでもないと首を振った。
だって三百億だぞ? この時代でだぞ? 八歳の子供の財布に入る金額ではない。
「過ぎたるものを抱えても潰れるだけです」
「それはそうですが……」
「佐吉に任せると言うのは良い案かもしれません」
一つ大きな懸念があって、あの蔵に米を預けていた者への対応が、勝千代ら武家には難しいのだ。
預けていた分を返せと言われればそうしてやりたいと思うが、果たしてそれが正当な請求なのか、どうすればそれが判断できるのか。
そういうことはやはり米座に顔が利く堺衆に任せた方がいいだろう。
換金についてもそうだ。この国には信頼できる通貨というものがないのだ。渡来銭、あるいは甲州金などでの換金になるのだろうが、中には粗悪なものがあるようで、それについても勝千代には知識がない。
「下手に何とかしようとすれば、騙されそうな予感がします」
唇を尖らせながらそう言うと、井伊殿は噴き出し、弥三郎殿は苦笑し、そろってそれを隠そうとしてか口元に手を当てた。
ひとしきり笑いの波を抑え込んでから、井伊殿が改まって咳払いした。
「ところで、御挨拶にはいつ?」
「出立が決まった前日がいいのですが、お会いできるとは限りませんので、早めに行こうと思います」
勝千代は唇を尖らせたまま、最後の握り飯を口に放り込んだ井伊殿を見上げた。
井伊殿はもぐもぐと口を動かしがながら思案し、大きく一度首を上下させた。
「和睦は八割がた話がついているようですので、見届けてから去るという当初の目標も果たせますな」
「ええ」
「失礼いたします」
陣幕の外から三浦兄の声がした。その声が微妙に緊張して聞こえたのは、四年という長い付き合いからだろう。
「東雲様がおいでにございます」
普段は取り次ぎなど待たずに入ってくるのに。
勝千代は訝しく感じて三浦を見て、首を傾けた。
弥三郎殿が帳面を閉じ、井伊殿が湯呑みの白湯をがぶりと飲んだ。
二人して読めない表情で床几から立ち上がる。
なんだかやけに物々しいなと目を瞬き、ようやく周囲の皆の表情が険しい事に気づいた。
ああそうか……と理解したのは、神妙な顔つきの東雲を見てからだ。
「すまぬ」
何の謝罪だ。
「何かありましたか」
勝千代が首を傾げると、東雲の表情がくしゃりと歪んだ。
いつも飄々とした貴公子ぶりのこの男が、珍しくひどく堪えた風にうなだれている。
「鶸は下がらせた。そなたに八瀬童子は近づけさせぬ」
「……はあ」
そもそも何だよ、その八瀬童子って。
勝千代はそう問い詰めたい気持ちになったが、東雲があまりにもしおしおとしているので、これ以上彼に聞くのは躊躇われた。
「あやつらも、長から命じられると従わざるを得ぬのや」
あやつらということは、複数形だ。八瀬童子というのは個人名ではないのか。
想像するに一族の名前か。たとえば風魔衆のような。
「ええか、呼ばれても公家には会いには行くんやない。権中納言様にもや」
今まさに、その権中納言様に暇乞いをしに出向く予定を考えていたとは言いだせず、まさかあの御方が勝千代の命を狙うとも思えず。
「どの公家の側近にも、八瀬童子が何人かおる。帝には忠義を尽くす者らやから、これまではそんなに大きい問題にはならへんかったのやが」
「……鶸も?」
「どの家も大概は喜んで召し抱える。使い勝手のええ使用人やからな」
その代わりに、その家の情報は帝に筒抜けということか。
そこまで考えたところで、ようやく理解に至った。
八瀬童子が勝千代を殺そうとしている。それはつまり……
「え、待って下さい。まさかあの御方が?」
思い浮かべたのは、いい匂いがする高貴な御方の顔だった。
衝撃を受けた勝千代と視線を合わせ、東雲はしっかりと首を真横に振った。
だが、口に出して否定はしなかった。




