27-8 下京外 宿場通り 八瀬童子
何か? と問いかけようとした言葉は、途中で飲み込まれた。
だが警戒が湧き起こってくるより先に、不安がこみあげてきた。
不測の事態があったのか? さっきの御方に? あるいは東雲に?
真っ先にこの状況への判断を下したのは谷だ。
鶸と勝千代の間に踏み込み、身を盾にする。
次いで土井が勝千代をもっと足場の良い、後方へと持ち上げて移動させた。
「なに用か」
騒めく夜風よりも強い口調でそう言ったのは逢坂老だ。
「用があるのなら疾く申せ」
鶸は逢坂を見てから、再び勝千代へと視線を向けた。
「……よい」
目が合って、その光る双眸の奥にあるものに思わず声を発していた。
「話があるのだろう。込み入った事なら部屋を用意するが」
鶸は静かに首を左右に振り、口を開いた。
「八瀬童子が御命を狙うとります」
ハッと息を飲んだのは誰だろう。
ますます勝千代を守る層が厚くなり、鶸からの距離が開いた。
もっと詳しい話を聞くべきだ。
勝千代は肉厚の壁を押しのけようとしたが、それより先に、鶸は言いたい事を言い終え、自ら距離を開けていた。
「待て」
呼び止めたが、灰色の忍びはこちらをちらりと見ただけで、すうっと明るい月夜の影に紛れて消えた。
その後は何事もなかった。
誰もが鶸の言葉について考えていたのだろうが、口にはしない。
寡聞にして八瀬童子なるものについて耳にしたことはなかったが、鶸の雰囲気から、公家あるいはそれよりも上の、やんごとなき御方々に関係があるのではないか。
その筋から狙われる心当たりはない。いまだ伏したままの皇子の件か? 勝千代が帝に毒を含ませたと思っているわけでもないだろう。
よもやさっきのアレか?
思いだしてしまった不敬に、再び肝を冷やす。
……いや、違うだろう。違うよな?
屋敷に戻ると、もはや真夜中どころか丑の刻になっていたのだが、朝比奈殿ら主要な面々が今や遅しと待ち構えていた。
お客人との面会の首尾が気になるのだろう。
皆勝千代の帰還にほっとした表情を隠さずにいたが、一通り話し終え、最後の鶸の一言を聞いて難しい顔になった。
この中の誰もその八瀬童子なる存在を知らなかったが、鶸がわざわざ言ってよこした以上、無意味なわけはない。
結論は、次に出会った時にでも、事情を知っていそうな御方に聞いてみるという消極的なものだった。
もとより、勝千代を邪魔だと感じている者は多い。常にも増して油断しないようにするしかない。
締め切った部屋の外から、コツリと合図のようなものがして、襖際に座っていた井伊彦次郎殿が外の者と何やら意思疎通を交わした。
次男の視線を受けて、井伊殿が大きく首を上下させる。
それを見て彦次郎殿が木襖を開け、控えていた複数の男たちを通した。
「近藤殿をお連れしました」
聞いていなかったのは勝千代だけらしい。
簀巻きにされた重量のある塊が部屋に投げ込まれても、誰ひとりとして表情を変える者はいなかった。
「口を割らせるため多少手荒に扱いましたが、息はあります」
あちらこちらに血の染みが滲んでいて、しかもピクリとも動かず呻きもしなかった。
生きているのか? 本当に?
仮にも今川館では上の方に位置する文官だ。このような事をして後で厄介なことに……はならないか。自軍からの逃亡、勝千代の死亡予告、御屋形様の死すらも口にしたというのだから。
「何故ここへ?」
「どうやら公家衆ともつながりがあるようで、御判断を仰ぎたく」
数え十歳の子供に?
勝千代が胡乱な顔をすると、井伊殿は咳払いをした。
「我らは遠江の国人ゆえに、公家の事情がよく分かりませぬ。言うておる事がどの程度重要なのかさっぱりで」
勝千代とてそう変わらない。
そう返答しようとしたのだが、井伊殿がかぶりを振ったので黙った。
「伊勢殿の娘が、万里小路様の分家に嫁いでいらっしゃるとか」
万里小路、と聞いてパッと思いつくのはやはり、叡山で勝千代を目障りだと追い払ったあの公家だ。
ぞわり、と背筋が震えた。
これ以上ここでその話をしてはいけないと思った。
「……よくわからないですね」
「さようでしょうとも」
ほんのりと、八瀬童子とやらが勝千代を狙う意味が分かった気がした。
知ってはならない闇深い何かが、そこにあるからだ。
「近藤殿はすぐにも今川館に帰還させましょう」
「はい」
勝千代が両腕をさすりながら言うと、井伊殿は真顔で頷いた。
伊勢殿と第二皇子の姻戚がつながっている? いやいや、そんな話を大声で吹聴する者が今川にいるなど、恐ろしすぎる。
「話した内容を聞いていた者は?」
「他所に漏らすことは絶対に御座いません」
勝千代は暗がりに座る井伊殿を見て、軽く首を振った。
話をこれ以上広げないためには口止めは必要だと思うが、口封じが必要だとまでは思わない。
実際にその婚姻がなされているのなら、そういう噂はすでにどこかで流れているだろう。
問題は、今川の高官がそれを重要機密として知っているという意味だ。
「近藤殿が漏らした内容は事細かに書面に上げてください。万が一にもそれが流出した場合にそなえ、我が方の人名などは明記しないように」
井伊殿は露骨にほっとした表情をした。
「はい。すぐにでも」
なんだ、勝千代が口封じを命じるとでも思ったのか?
情報の遮断が目的なら、この場にいる全員を殺さなくてはならなくなる。非効率すぎるだろう。
勝千代は少し考え、田所の配下を貸し出すことにした。
この件は、井伊殿だけに秘密を負わせるには重すぎる。
その点田所の配下はこういう事には慣れている。リーダーは不在だが、いつものようにうまくやるだろう。




