27-6 下京外 宿場通り 謁見
明るい月夜だ。
寸前に大勢の命が散ったとは到底思えない、清涼感のある風が吹く。
滞在している商家の別邸には、坪庭というには広い中庭があり、「お客人」をお迎えするかなり前から、勝千代はひとり、ひんやりとした土の上に座っていた。
その御方が姿をお見せになられたのは、明るい月が平屋の屋根に届く深夜過ぎ。
仰々しい供回りなど居らず、一条権中納言様のみを背後に従え、額を地面につくまで低く頭を下げた勝千代の傍らに立っていた。
正面入り口から入り、建屋の中を通っていらっしゃるのだろうと予想していた。
だが「お客人」は沓を履いたまま、勝千代の真ん前、下手をしたら顔を上げた瞬間に差袴に接触しかねない距離にまで近づいて来られた。
立ち止まり、何もおっしゃらずにしばらく。
その時勝千代は、多分息を止めていた。
そして数秒後、漂ってくる高雅な匂いにクンと鼻をうごめかせる。
ふっとそのいい香りが動いた。
ただひたすら地面に視線を固定させていても、お客人がその場に膝を折って屈んだのが分かった。
「お勝殿」
緊張する勝千代の耳に届いたのは、よく聞き知った一条権中納言様の声だった。
「面を上げよ」
いや、まずいでしょう。
勝千代はなおもガッと額を地面に押し付けた。
「なごうお待たせするものやない」
権中納言様の、穏やかに促す言葉にも頑なに無言を貫く。
だってわかるだろう? 直接お言葉を頂くだけでも恐れ多いことなのに、視線を合わせるなどと……
さわり……と柔らかな絹擦れの音がした。
あのいい匂いが更に近くなり、勝千代は地面に這いつくばった姿勢のまま、ひょいと真上に持ち上げられた。
「えらいこまいの」
固まった勝千代の両脇に手を差し入れたその御方は、屈めていた腰を伸ばして、まるで高い高いをするように勝千代を持ち上げた。
ひゅっと息を吸い込んだ。
間近で見つめた双眸は、黒目がちの奥二重だった。
「そなたがお勝か」
「……はい」
小柄とはいえ数え十歳。幼子というには体重もある。そんな勝千代を両手で掲げ持ち、月明かりに顔を晒してまじまじと見ているのは、濃色の直衣を身にまとった、ひとりの若い男性だった。
フツメンだ。
ものすごくいい匂いがするが、極めてフツメン。
背後に立つ一条権中納言様と同じ年頃で、中肉中背、極めて日本人的な平たい顔立ちをしている。
視線が真正面から絡み合い、何故だか納得した。
この御方の御血筋が、遠い令和の時代まで脈々と日本の帝でありつづけるということを。
「福島勝千代と申します。ご尊顔を拝し……」
定型文的に礼を尽くした挨拶をしようとして、言葉が途切れる。
いやだって、この状態だぞ。
へにょりと眉を下げた勝千代を見上げて、その御方はふっと笑みをこぼされた。
「堅苦しい挨拶はええ」
穏やかで優し気な口調だ。
耳に馴染むその声色に、勝千代は視線を逸らすことなく数回瞬きした。
人類みな平等と言われる時代でも、ある程度の身分というものが令和の時代にもあった。
よくわからぬままこの時代に放り込まれ、比較的早くに慣れる必要にかられたのもその身分差だ。いや、慣れたというよりは飲み込んだと言うべきか。
武家の中では上の方の身分だが、上にはさらに上がいて、下には果てしなく下がいる。
大勢に頭を下げられ、大勢に頭を下げ、馴染んだと見せかけて実際は令和の価値観とそう変わらずにいた。
たとえば御屋形様や一条権中納言様など、遥かに身分が上だとわかり切った相手にでも、どう表現すればいいのだろう、同じ人間だという認識がどこかにある。
人類が進化の過程に至る前は、社会的身分などなかったのだという教科書的な知識? 常識? そういったものが根底にあるのだと思う。
事実令和の時代になれば、皇族も現人神ではなく人間なのだと誰もが知っている。
目の前にいる若き皇族もそうだ。
おそらくは父親を亡くしたばかりの心痛や激情を押し殺し、ご自身の勤めを果たされようとなさっている。
「……下ろして頂いても?」
おずおずとそう言うと、「お客人」はにこりと笑みを浮かべた。
「なんやこのところ世知辛い事がおおてな。気分が荒むと碌なことを考えん」
いや、だから下ろして……
「少し歩こうか。奥に小川があったのや。水面に月がきらめいて、眩いほどでな」
あろうことか、御方は勝千代を子供のように片腕で抱きかかえ、歩き出してしまった。
助けを求めて周囲を見るが、誰も視線を合わせてくれなかった。
徹底して人払いをしていたせいもある。護衛はそれなりに居るのだが、勝千代側のものではない。
権中納言様でさえ、読めない表情で首を振るだけだ。
もともと宿場通りの奥まった場所にある屋敷なので、敷地を出てしまえばすぐそこは山だった。
鴨川に注ぐ細い支流であるその小川は、宿場通りでは生活用水として使われているのだろうが、川上では美しい清流だ。
山の斜面を下ってくる音も涼やかで、明るい月の光をはじいて、なるほど、はっと目を引く鮮やかな風情だった。
「この世はとかく荒んでおるのに、美しいものや」
恐らくそれは、数時間前に大量の血が流れた現実と、完璧な美を体現する自然の風景との対比を仰っていたのだと思う。
勝千代は空気を読んで、川魚がたくさんいそうだなどと思ったことを口にはしなかった。
「明日詔を出す」
しばらくして、お客人が静かに言った。
難しい><




