27-3 下京外 今川本陣 崩御3
総大将である朝比奈殿が読むべき書簡を、未開封のまま差し出された。
この時代の重要な書簡は、一応開封未開封かがわかるようになっている。だが糊で封をしているわけではなく、かなりアバウトな密封具合なので、事前に目を通すのは難しい事ではない。
差し出された一見未開封のものを見ても、一度開けた封を丁寧に戻したのだろうと単純に考えていたのだが、至近距離に立つとそうではないと嫌でもわかった。
片膝を地面に着き両手で掲げ持っている……というよりも、むしろ上半身が引き気味なのだ。
相変わらずの無表情だが、全身から発散させているのは読みたくないオーラ。そもそも触れたくないという雰囲気を隠そうともしていなかった。
……そんな汚物のように扱わなくても。
勝千代は若干の呆れを表情に浮かべたが、自身もそれほど受け取りたいわけではない。
誰か代理で……と視線を巡らせ、井伊殿と目が合ったが、一瞬で視線がそらされた。弥三郎殿もだ。
諦めて手を伸ばして受け取ったが、それが親指と人差し指の二本だったことは内緒にしてほしい。
仰々しく包まれた書簡を開き、中のペラペラの紙を見て再び溜息をついた。
本気でこれを、今川軍五千の総大将に送りつけたのか?
朝比奈殿の嫌そうな態度にも納得がいく。
墨が透けて見えるほどの薄い紙が、びっしりと小さな文字で埋め尽くされていたからだ。
なんだよこれ。呪物か?
勝千代は顰めた顔を隠しもせず、やはり親指と人差し指の二本で薄い紙の端をつまんだ。
折りたたまれた紙がぺらりと風にたなびき、細かすぎる指示書の内容が白日の下にさらされる。
「……このまま飛んで行ったことにしたら」
「なりませぬ」
ドスの利いた声でそう言ったのは逢坂老だ。
内容は最初と最後の数行で完結するものなのに、無意味に長く無意味に上から目線。書面の九割が叱責だった。伊勢殿に合力しないとは何事と、御屋形様の名でそう書かれている。
ここ半年、御屋形様は起き上がることすら難しく、各所に送られている書簡の多くは祐筆の手を介したものだ。御屋形様の祐筆を務めている文官は複数名いるが、この書面の書き手はそのいずれでもない。
「御屋形様からのものではありませんね」
「今川館から送られてきた正式なものではあります」
勝千代の引き気味の言動に、真顔で頷きを返してくるのは朝比奈殿だ。
もしかして前線にずっとこういうのを送りつけて来ているのか?
だとすればうんざりもするだろう。
勝千代は改めてもう一度文書に目を通してから、非常に嫌そうな顔をしている朝比奈殿に押し付け……もとい、手渡した。
たいしたことは書かれていないが、一応は目を通しておくべきだ。
朝比奈殿は嫌々受け取って、さっと書面を視線でなぞった。そして一度で十分とばかりに隣の井伊殿に差し出す。
井伊殿は苦笑しながら、「いつものですな」と受け取った。
前線だけではなく、国人衆にまでこの手の書簡を送りつけているのだろうか。
何をやっているのだ、今川館。
いや、大国のトップが病に倒れると言うのはこういう事なのかもしれない。
戦国時代は各国が専制国家のようなものだ。強いトップの不在は、大なり小なり国が揺らぐ。
それを防ぐために一門衆や譜代が台頭するというのは定番だが、今川の場合は桃源院さまや御台様が強くにらみを利かせている。
そうやって女性が前に出てくれば反発されるものだが、御屋形様の健康状態には波があって、体調が良いときは兵を動かすこともあったから、緩やかに今の状況になったという形だ。
いずれ龍王丸君が家督を譲り受けるまでは、いやその後もしばらくは、女性陣及び文官の強権は続くだろう。
ちなみに龍王丸君は元服して上総介を名乗ることになった。御屋形様も昔そう名乗っていたそうだし、なんなら福島の父も同じ名乗りだ。そのうち勝千代もその名を受け継ぐのだろうか。
勝千代が上総介を名乗ったら、またぞろややこしい所からややこしい事を言われる気がする。
「……稼げて三日でしょう。間に合いますか」
現実逃避気味に、難癖つけられる将来を妄想していた勝千代は、井伊殿のその言葉にぱちりと瞬きした。
いずれ今川館から、伊勢殿に合力するようにとの命が届くのはわかっていた。
祝い事ではなく、実戦に放り込むための捨て駒……とまではいわないが、少なくとも五千の兵を引き連れ上洛せよと命じた者は、伊勢殿が事を起こすことを知っていたはずだ。
味方せず、ここで傍観していることこそが計画外だろう。
「わかりません」
勝千代はいまだ激しく衝突している両軍を見つめ、静かに言った。
正式な命令に逆らう事は許されない。
勝千代にはもちろんそれを強要する権限などないし、譜代の一門に過ぎない朝比奈殿がそんな事をすれば謀反と謗られる。
指示書を運んできた使者が、日数を誤魔化せるとして三日。
その日までに和睦を成立させなければ、あの混戦の中に踏み込んでいかなければならなくなる。
「北条の弟君が到着なさるのもその頃ですな」
井伊殿の低い声が、まるで笑っているかのように震えた。
何が面白いのだとその顔を見上げると、勝千代と同じように戦塵を見据えていた男と視線が合った。
「三日もてば伊勢に勝ち筋が見えて参ります。それまでに和睦が成立すれば勝千代殿の勝ちです」
にいっと笑うその表情に、勝千代は呆れた。
「……いや、勝ち負けでは」
否定しかけて、口を閉ざす。
確かに、和睦が成立することが一番の望みなのは確かだ。それを「勝ち」と言うのは、あながち間違っていない気もした。
勝千代は、こわばった表情でこちらを見ている東雲に目を向けた。
少しでも、「勝ち」の可能性を上げるためには、伊勢殿の最後の希望であろう例のアレを潰しておく必要がある。
「前に申し上げた事を覚えておいでですか?」
わからない様子だったので、「米蔵」と口の形だけで告げる。
「大喪礼も御即位礼も、さぞご立派なものになるでしょう」
ぎょっとしたのは東雲だけだ。
「市井の米蔵ですので、持ち主がはっきりしている分は返してやりたいですが、伊勢殿がおらぬようになれば、おそらくは多くが行く方を無くすものです」
そもそも伊勢殿の手に渡らなければいいのだ。
帝の御為に使って頂けるのならば、それに越したことはない。




