27-2 下京外 崩御2
大河の奔流は、卑小な人間如きではせき止める事は出来ないのかもしれない。
勝千代は離れた距離からでも伝わってくる煤けた臭いに、ぎゅっと奥歯を噛みしめた。
一旦停戦状態にあった両軍は、まるで映画の一時停止を再開したかのように、再び激しくぶつかった。
上京と下京の中間部分が、今回の主戦場だ。
細川京兆軍と最前線で矛を交えているのは、朝倉軍ではなく六角軍だ。
どちらが優勢だとか、どちらが特筆するべき動きをしているとか、そんなものを観察していられる状況ではない。
今川軍は下京近くの宿場通りと、上京北東の叡山参道前に二分する形で、巻き込まれないよう兵らが川を渡ってこないか見張る事しかできなかった。
北条の援軍がまだ到着していないのが幸いだった。
左馬之助殿はぎりぎりまで参戦を引きのばそうとしていて、再び伏見まで兵を引き、例の重傷説をまた復活させたようだ。
いやそれでも、傍観しているのにも限度がある。
どうする。
勝千代は苛々と唇を噛む。
前回の戦の名分が将軍位なら、今回は帝への弑逆だ。
お互いがお互いを朝敵よと罵り、血みどろの混戦と化している。
どちらにも味方したくはない。
だが、どちらが勝っても傍観していたことを責められるだろう。
状況の詳細を知らなければ、今川館は同族の伊勢派を支持するはずだ。
叡山に攻め込んだ事実を知っても、「無かった事」になっているのだからそれはスルー案件か。
この戦で負けた方が、恐れ多くも帝に刺客を送り込んだ極悪人だと歴史に名を残すだろう。
実際にどうだったかではなく、それが敗者の負う罪だ。
よくない。
本当によくないぞ。
勝千代は、方々で立ち上る戦塵をじっと見据えた。
こうやって足踏みしている間にも、人は死んでいく。
濁流となって何もかもを巻き込んでいるこの流れを、どうにかすることなどできるのか?
「東雲様です」
三浦の声にはっと我に返った。
物々しい戦装束の武士たちの目前を、真っ白な狩衣姿の若い貴公子が悠然と歩いてくる。
珍しく、供回りに鶸がいなかった。
「お勝殿」
側まで来て初めて、その白皙の貌にくっきりと黒く隈ができているのがわかった。
ああ、やはりそうなのか。
勝千代は信じたくなかった帝の死が、真実なのだと悟った。
「いったい誰が」
誰が帝を弑したのか。
主語を濁してはいるがストレートな問いかけに、東雲が顔を顰める。
「毒見が見過ごした」
つまりは、何者かが帝に毒を? 状況が状況だけに、常にも増して用心していたはずなのに。
「送り主は」
東雲は軽くかぶりを振った。
肝心の犯人についてはわかっていないようだ。
「もともとお身体が弱ってはったのや。御心労が祟って」
「……待ってください。それほど強い毒ではなかったと?」
殺すことを目的とするのなら、一撃で相手の命を奪う強い毒を用いるはずだ。
弱い毒も強い毒も、一服盛るのは同じ労力だ。生き延びるかもしれない毒だったというのなら、それは殺すことを目的とはしていなかったのではないか。
「毒は毒や」
東雲は吐き捨てるように言った。
「和睦が流れたらなんでもよかったのやろう」
勝千代はまじまじと、東雲の血色の悪い顔を見上げた。そして、その言いたいことを理解して、同じように唇を引き結ぶ。
毒を盛らせた何者かは、帝の御命をまるで「たいしたものではない」という風に、いとも軽々しく扱ったのだ。
……この戦の名分とするために。
勝千代は拳で強く眉間を擦った。
令和の時代を生きていた時、天皇家にそこまでの思い入れがあったわけではない。周囲の大多数と同様に、日本の象徴だとほのかに敬う程度だった。
だが、粗略にあつかっていい御方だと思った事など一度もない。
軽々しく戦の口実に利用するなど、あっていいはずはない。
「……ひとつ」
勝千代は、朧げに思い描いた事を無理やり引っ張り出した。
ここまでする必要があるのかと、込み上げてくる畏怖を飲み込み、険しい表情で戦況を見ている東雲を見上げる。
「恥も恐れも知らぬ何者かが描いた筋書きを、ひっくり返す手立てがあります」
青白い顔がパッとこちらを向いた。
帝を弑した何者かは、この戦を再燃させることを目的としていたのは間違いない。
今の帝に権勢はほとんどなく、わざわざその御命を狙う目的があるとするなら、それぐらいしか考えられないからだ。
ではどちらの陣営がと問われると、どちらでもあり得ると答えるしかない。
公家らの心象としては伊勢派だろうが、和睦を良しとしないのはおそらく管領殿のほうだ。
「帝の御名で勅令を」
「……なにを」
「我ら下々の者には、高貴な方々とは直接お目にかかる機会などございません。お目見え以上の身分があろうと、御簾越しの事でしょう」
「ご健勝やということにせよと?」
「なにも」
地を這うように低くなった東雲の声に、勝千代もまた声を潜める。
「臥せっているとか、重篤だとか、そのようなことを申し開きする必要がありますか」
冷ややかな視線が突き刺さる。帝を利用するのかと、その目は語っている。
東雲からの軽蔑すら含んだ凝視にも、勝千代はひるまなかった。
拳を身体の脇まで下ろし、冷静に、端的に、言葉を続ける。
「前例を作ってはなりませぬ」
先の帝は亡くなってから埋葬するまでにひと月以上かかり、今上帝も即位の礼まで二十数年かかったという。
朝廷に資金と権力がなく、武家にいいようにあしらわれたが為にそのようなことになったのだ。
今度は都合のために弑逆? もしそんな事がまかり通れば、今後も同じことが起こらないとは言えない。
「悪しき前例を残さぬために、伊勢殿の暴挙を無かったことにしたのでは」
勝千代は真っ青な顔をしている東雲に、もう一度繰り返した。
「和睦の提案ではなく、勅令を」
遠くでドドドンと地響きを含んだ重い音がした。
どこかで大きなものが倒壊したのかもしれない。
目を凝らすと、下京に近いところで盛大な土埃が上がっている。
突風が山から吹きつけ、木々を揺らし、ゴウと鼓膜を鳴らした。
チチチチチ……! と鳥がけたたましい声を上げながら飛び立っていく。
山が揺れ、大地が揺れ、動物たちも何か異変を感じ取っている。
勝千代はふと、上空を見上げた。
なにごともない顔をしているのは、雲一つない快晴の空だけだ。
飛び立った鳥たちが方々に散っていく姿に、無性に焦燥感が湧き起こってくる。
「……お勝殿」
東雲の声色は平淡で、感情の乗らない冷ややかなものだった。
嫌われたかな……そう思いはするが、一度出した言葉を引っ込める気はない。
「若」
逢坂老に呼ばれて振り返ると、片膝をついた朝比奈殿が両手に白い封書を掲げ持ってこちらを見ていた。おそらくそれは、今川館からの指示書だ。
ああ、とうとう届いてしまったのか。
勝千代は長く息を吐き、朝比奈殿に頷き返した。
そこに何が書かれているのか……それによって、今後の身の振り方を決めなければならない。




