27-1 下京外 宿場通り 崩御1
このまま和睦まで進めばいいと思っていた。
何事もなく、平和的な解決を望んでいた。
だが、ここで日和見をする程度の覚悟なら、そもそもこんなことが起こるはずもなかったのだ。
あの嵐の夜から五日。
和睦の動きが出て三日目。
明け方のひんやりとした空気の中で朝の支度をしていた勝千代のもとに、段蔵が急にやってきた。
身の危険を感じさせるような登場をする男ではないのだが、とにかくそれは唐突で、露骨に寝起きの表情をしていた谷をはじめ、忍びに慣れている護衛たちですら驚いて飛び上がるほどには急だった。
厠から少し離れた井戸端。
夜番と役目を交代した三浦が、いつもの朝一番の仕事としてたらいに水を張り、掲げ持つ。
普通は部屋で顔を洗ったり身支度を済ませるものなのだが、朝一番で厠に行きたい勝千代の意向で、気候がいい時期は外で終わらせることも多い。
その日は本陣ではなく、土居侍従らが臥せっている宿場町に戻っていて、野宿とは違いぐっすりと眠れたので比較的早起きだった。
東の空が白み始めた早朝。
さわやかな春の鳥の声を聞きながら顔を洗い、塩をつけた柳の小枝をガジガジと噛む。
恐るべき戦国時代の衛生事情。なんと頭も洗わないし歯も磨かないのだ。
いやそれは言い過ぎか、洗髪という言葉はあるし、歯をきれいにするという思考そのものがないわけではない。
ただ、それを毎日という発想はなく、勝千代はたぶん周囲からかなりの潔癖症だと思われている。
だが、いくら呆れられようが、せめて一日に一回ぐらいは歯磨きをしたいじゃないか。
そんなこんなで、勝千代は毎朝こうやって井戸端で歯磨きを嗜んでいるわけだが……
目の前で小柄な谷の背中が跳ねた。
勝千代は柳の小枝を咥えたまま、ぼんやりと瞬きを二回。
段蔵だと理解したのは、谷が刀の柄から手を離してからだ。
普段の端正な佇まいではなく、さながら急降下。スライディング。とにかく勢いが良すぎて土埃が立つなどこの男らしくない。
「……段蔵?」
思わず大丈夫かと問いかけたくなるほど、その肩は荒く上下している。
まさか負傷した? いや、全速力で遠方から駆けてきた雰囲気だ。
段蔵に見張らせていたのは細川京兆軍の動向だ。その本陣があるのは上京。たった数キロの距離を駆けたとて、息を荒げる男ではない。
勝千代は無言で柳の枝を吐き出し、土井が掲げ持っていた柄杓を受け取った。
目の前で両膝両手をつき息を整えている男に、その柄杓を差し出し「ゆっくりでよい」と告げる。
「……っ、いえ」
さっと上げた段蔵の顔色は白かった。普段から顔色がいい男ではないが、こんな表情は初めて見る。
何かがあったな。
勝千代は、最悪の知らせを覚悟し、心の防御を固めようとした。
「今上帝御崩御」
声もなく、手に持っていた柄杓を取り落とす。
カランと石に当たって乾いた音が鳴った。
段蔵が張り付いていたのは上京だ。どこからその話を聞いてきた?
真っ先に考えたのがフェイクニュースの可能性だが……いや、偽りの情報であってほしいとは思うが、とりあえずは最悪の方向で考えなければならない。
何があった。まさか、和睦の話を流すためにどちらかの陣営が動いたのか?
恐怖に近いものが鳩尾あたりから這い上がってきて、「いいや、そんなはずはない」と否定する。
伊勢軍の襲撃を受けたばかりだ、帝の周辺は万全の態勢で警備をしていたはずだ。
どこかの兵が動いたとは聞いていない。風魔忍びの目をかいくぐって、忍びが侵入するのも難しいはずだ。
帝の体調不予などという話も聞いていない。いや、周囲には気づかれないようにしていただけかもしれない。
だが、御命に係わるほどの不調であれば、一条権中納言様は御存知だったはずで、それを勝千代に言わないということがあるだろうか。
勝千代は口の中に残る濃い塩味を飲み込んだ。
頭の中は忙しなく働き、考え得る色々なパターンを予想してみるが、どれも碌なものではなかったし、今より状況が良くなるとも思えなかった。
甲高いメジロの声が響く。番いなのか、テリトリーを主張しているのか、美しい声で呼びあっている。
うららかな春の早朝。実にのどかで平穏な雰囲気だが、近場には数万の兵がいて、一歩間違えば血みどろの戦が再発するという状況下だ。
よくない。
非常によくない。
勝千代は気を取り直し、呼吸を整えこちらを見上げている長身の忍びを見下ろした。
「真偽は」
「少なくとも細川管領は事実だとみなし動こうとしています」
帝は伊勢の刺客に弑されたのだ。
口に出すのも憚りあることを公言し、和睦などしている場合かと檄を飛ばしているそうだ。
「実際のところはどうなのだ。刺客か? 病か?」
「わかりませぬ。ですが……」
そう、真実はそれほど重要な事ではない。
細川京兆家は、伊勢の叡山襲撃が「無かった事」になるのを良しとはしなかった。
伊勢を朝敵として叩きたいのだ。
いやもしかすると、そうしたいがために細川京兆家こそが刺客を出した可能性すらあった。
勝千代は白みはじめた山際を見上げた。
まだ太陽は顔を見せない。美しいその朝焼けの光景に、ぐっと奥歯を噛みしめる。
このまま和平にたどり着ければと思っていた。
だがここは戦国の世なのだ。誰もが己の野望のために爪を研ぎ、牙をむき、敵の喉笛に噛みつくことを躊躇わない。
「……朝比奈殿に伝達。すぐに軍議を」
大きな戦いになるかもしれない。
起こり得る最悪の事態を視野に入れて、これからのことを話し合っておかなければならない。




