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春雷記  作者:
京都編

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26-6 叡山参道前 今川本陣 和睦2

 北条の増援が到着するまでには、まだ時間がかかるだろう。

 だがそれまでに、和睦の話し合いが済むだろうか。

 話し合いが長引けば不利になるのは阿波軍だ。所領から兵糧を運んでくる細川京兆軍と六角軍はなんとかなるのだろうが……いや、万単位の兵数を一日長く率いるのにどれほどの兵糧が必要になるか考えると、どこも長引かせようとは考えないだろう。

 そう、補給路が短く有利なはずの六角でさえも。


「……やりますな」

 そう言って顎の白い髭をさすっているのは逢坂老だ。

「朝倉に疑惑が向きそうにないのが素晴らしい」

 井伊殿も同意するように頷いて、碁石の置かれた地図をまじまじと見下ろしている。


 朝倉が持ち帰った小石混じりの兵糧は、誰に気づかれることなく六角の蔵におさまったそうだ。

 その、誰に気づかれることなくというのがたいしたもので、白昼堂々商人のふりをして米俵を運び入れ、半日後、何食わぬ顔をして運び出した。

 それに気づいた者はいない。少なくとも、怪しみ警戒した気配はないそうだ。

 計ったようなタイミングで、六角家中の不穏分子、南近江の国人衆が苦情というか難癖というか揉め事を起こしていて、分散している六角家の米蔵を次々に開けさせていたのだ。


 強奪とかそういことではない。今回の豪雨で各家の米蔵に被害が出たようで、そうなった場合には互いに助け合うという約定が交わされていたのだそうだ。

 奪っていったのであれば堂々と苦情も言えるし、戦を仕掛けて取り返すのも可能だが、そういう約定だからと、銭を渡して米を根こそぎ引き出した。

 この先兵糧が追加で必要になる可能性が大いにあるとわかっていたので、六角家の実務担当者は渋ったそうだ。

 だが、正式な約定だろう、金は払うと言われてしまえば文句も言えない。


 その動きの裏に、朝倉の坊主頭が関係しているのは明白だった。

 国人衆が支払った金のいくらかは朝倉家から出ているのだろうし、兵糧の不足はこれで解決したはずだ。

 この時代、米は通貨と同様の価値があるものだから、金を払って米を持って行っても、その米をまた売れば金になるのだから問題はそれほどないのだ。


 真に恐ろしいのは、南近江の国人衆にそこまでさせる朝倉家の影響力だ。

 ただではないだろう。本人が言っていた一枚の札ということでもなさそうだ。

 確かに勝千代は、朝倉軍を飢えから救い、京での諍いから身を引くきっかけになりはしたが、それが値する駄賃かと問われると首を傾げざるを得ない。


「六角家の備蓄はもうそれ程残っておりません」

 段蔵がきちんと両膝をそろえた姿勢でそう報告する。

 勝千代はため息をつき、南近江の地図から視線を逸らせた。

 この時期の畿内の事を思いだそうと眉間を揉んでみるのだが、学んだ記憶すらないのだから、掘り起こしようもない。

 日本の歴史にそれほどの興味がなく、受験にもかかわらなかったから、そもそも「六角」という名前にも、そういう俳優がいたなという程度の記憶しかないのだ。


 史実における六角家の役割、あるいはどの程度の勢力だったのかなど、記憶を掘り起こそうとしてみても欠片も浮かんでは来なかった。

 だが、現状の権勢を考えると、知らないのはただの知識不足なのだろう。

 宗滴殿の「観音寺城は落とせる」という言葉を文字通り実行されてしまうと、あるいは歴史が大きく変わってしまうかもしれない。

 観音寺城を落としても、南近江を取ることはできないと言っていたが、六角家を滅ぼせないとは言っていない。

 国を奪うという意味ではなく、文字通り六角家に甚大な痛手をおわせることは可能なのだと思う。


「美濃に教えてやれば喜ぶでしょうな」

 勝千代の工作を知らないはずの井伊殿が、悪い表情で笑う。

 噂は流している。おそらくはその真偽を調べている最中だろう。ここでちょっかいを出して来るかどうかまではわからないが……

 井伊殿がやりたいのは、未必の故意よりもっと積極的な扇動だろうが、遠江の国人である勝千代らにそれをする意味はあまりない。

 無意味な事にこれ以上口を突っ込むべきではなかった。


「……六角殿がこの事態に気づくのはいつでしょう」

 勝千代の呟きに、井伊殿はニヤついていた唇を逆向き引き結び、思案した。

 できれば、早くが好ましい。

 井伊殿も同じことを考えたのだろう。「教えて差し上げては?」と真顔で言う。

 勝千代は、もはや策士の顔を隠そうともしない井伊殿を見上げて苦笑した。

「機会があれば」

 今すぐはうまくない。もう少し状況が悪くなり、挽回が難しくなるまで待ちたい。

「なんとも意地がお悪い」

 心外だ。

 意地悪な人に意地悪だと言われ、唇を尖らせると、「ぷ」と少し離れた位置で井伊殿の側付きが噴き出し、慌てて口を手で覆った。

 六角殿とは会ったこともないし、付き合いもないし、これから先も仲良くする予定はない。わざわざそんな相手に教えてやる義理はないだろう。

 ……これって意地が悪いとは言わないよな?


「伊勢殿は和睦を引き延ばし、よそからの増援を待っている状態です。ですが、おそらく遠からず六角は引くでしょう。その前に有利な条件での和睦、あるいは決戦を望むはずです」

 だから知らせるとすれば、六角殿ではなく伊勢殿だ。

 勝千代の思案に、井伊殿は再びにやりと笑った。

「いいですな」

 ……なんだかこちらまで性格が悪くなりそうだ。

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― 新着の感想 ―
[一言] 確かに私も地元でなければ六角も信長に滅ぼされ蒲生が信長に降ったくらいの知識だろうと思いますよ。これでも日本史偏差値結構高かったんですが(^_^;) 山川の教科書にもほぼ出てこない。 野良田な…
[一言] 白昼堂々商人のふりをして(小石入りのかさまし)米俵を運び入れ、半日後、何食わぬ顔をして(もともと貯蔵されていた全うな米俵を)運び出した。 ということでいいのでしょうか。 それなりの取引だ…
[一言] やっぱり著名な坊主頭は有能ですな。 そーいえばこの時代の六角家は定頼が当主ですか? あんまり詳しくないですが気になりました。
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