26-5 叡山参道前 和睦1
和睦の提案が各陣営に伝達されたのは、あの豪雨の夜から数えて二日目だった。
段蔵と遠山の両方からその情報がもたらされたが、内容については少し違った。
両者に共通しているのは、「和睦の提案が朝廷から各陣営に送られた」という点だ。
段蔵からは、伊勢殿がその提案を一考すると返答し、細川管領殿は降伏条件に近いものを突き付けてきたという事。
遠山ルートから流れてきたのは、細川管領は和睦に積極的だが、伊勢殿はそのつもりはなさそうだという話だ。
どちらも間違ってはいないだろう。
伊勢殿はとりあえず話を聞く構えを見せたが、細川管領殿からの要求に否やを唱えた形だ。
これまでの経緯からも、簡単に話し合いが成るような感じはしないが、そこをどう収まりをつけるのかは、はっきり言って勝千代のあずかり知らぬところだ。
いやその前に、一番に驚くべきなのは、いまだ伊勢殿が下京での指揮権限を保有し続けていることかもしれない。
伊勢殿が失墜し、代わりに六角が立つだろうと予想していたのだが、そうはならなかった。
五百程度兵を失ったとてたいしたことがないとでも言うのだろうか。
「無かった事」になったのだから、知らぬ顔でいるつもりだろうか。
あるいは六角殿が、責任を取る立場に立つことに危うさを感じているのかもしれない。
ともあれ、ここまで強硬姿勢を貫いてきた伊勢殿だ、和睦の条件があまりにも偏っていたら、きっと戦いを続けるだろう。
朝倉軍が撤退していったのと同じ理由で、阿波軍は長く戦えないとわかっている。
他の伊勢一族、あるいは周辺諸国がどう動くか、実際のところはまだはっきりわかっていないのだ。
今川軍も北条軍も、今は中立の立場でいるが、それは本国からの通達がまだ届いていないからにすぎない。
同じ陣幕で軍議を重ねている左馬之助殿とも、もしかすると敵対してしまう可能性もある。
そんな危惧が現実のものとなったのは、和睦の話が進み始めた翌日。
叡山襲撃の夜から数えて三日目の昼だった。
難しい顔をして軍議に現れた左馬之助殿は、無言のまま勝千代に「すまぬ」と言った。
その瞬間に、勝千代には何が起こったのかわかってしまった。
勝千代が「そうですか」とつぶやくと同時に、同じ軍議に参加していた今川軍の将たちがそれぞれ刀に手を当てる。
そうか、北条が伊勢側につくのか。
少し考えて、立ったまま申し訳なさそうな顔をしている男に、床几を勧める。
今川の将たちが殺気立っても、左馬之助殿は反発しようとはしなかった。
ただ肩を落とし、背中を丸くして……その両眉を垂らした情けない表情を見て、刀に手を当てていた者たちは渋々と緊張を解く。
「それで、御国許はなんと?」
勝千代の問いかけに対して、返ってきたのは盛大な溜息だった。
恐らくは北条家当主から、今後への指示があったのだろう。
左馬之助殿があんな顔をしているということは、望んでいたのとは真逆の沙汰だったのがわかる。
「弟が来る」
渋々とつぶやいたその一言に、勝千代はコテリと首を傾ける。
左馬之助殿の弟ということは、北条の一門衆ということか。
この時代、身分が高くなればなるほど側妾を多く置くきらいがあり正嫡以外の子供の数は把握が難しい。左馬之助殿はどうか知らないが、勝千代自身も側室の子だ。
しかし数いるその異母兄弟を、全員「兄弟」と呼ぶかについては、微妙なところだ。
嫡男とそれ以外に歴然とした立場の違いがあるように、同腹であれば「兄弟」だと認識していても、母親が異なればくっきりと線引きしてあることも少なくない。
左馬之助殿の気性から、母親が違えど「弟」と呼びそうだが、その渋い表情を見るに、あまりいい関係性ではないのかもしれない。
「厄介な御方なのですか?」
率直にそう尋ねた勝千代の意識を引いたのは、わずかに上がった遠山の視線だ。
……なるほど? 詳しい話はあとでということか。
それほどデリケートな関係の相手を、左馬之助殿の元へ寄こした北条殿の意図がよくわからない。
「和睦の話が進んでいます。すぐに敵対するということにはなりませんよ」
勝千代が慰めても、左馬之助殿の肩は落ちたままだ。
「小田原に事情を説明する書簡を送った当初とは、状況もかわってきています。伊勢殿が帝に弓引いた事実を耳にしても、伊勢殿に合力せよと仰るでしょうか」
「兄上のお考えに否を唱えるつもりはない」
左馬之助殿はきっぱりとそういうが、「だがしかし……」と思っているのが透けて見える。
まあ、こういう男だから、しっかりと判断を下せる一門衆を送り込んで来たのだろう。
「北条からの増援は?」
早馬での伝令により指示があったのなら、あとから増援の兵が送られてくる可能性もある。
一応聞いておかねばと問いかけると、左馬之助殿は若干口ごもった。
「千です」
代わって答えたのは遠山だ。
千。つまりは現状の北条軍は倍の兵数を保有することになる。左馬之助殿は総大将だよな? いや、同程度の兵力が合流するのであれば、その「弟」のほうが責任者になる可能性もある。
勝千代はもう一度首を傾け、「そうですか」と繰り返した。




