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春雷記  作者:
京都編

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26-4 叡山参道前 雷雲一過4

 数時間かかけて、ようやく叡山の参道を下り切った。

「これからどうなさいますか」

 三半規管の混乱にうんざりしていた勝千代に、そう声を掛けてきたのは朝比奈殿だ。

 やれやれもう揺れないだろうと安堵の息を吐いてから、まだ細い坂道を下っている長い列を振り返って「そうですねぇ」と首を傾ける。


 一番の懸念は、再び叡山に攻め入ってくる勢力がいるのではないか、という事だ。

 手間も労力も勝千代の三半規管のことも考えて、何度も山を上り下りする羽目になるのは勘弁してもらいたい。

 だが攻める事を考えるのなら、やはり「今」なのだ。

 今川軍が撤退した瞬間を見計らって攻撃をしかければ、帝を直接……ということも十分に可能だと思う。

 叡山で待ち構える事ができれば良かったのだが、追い払われてしまった。

 他のルートの見張りは続けているが、時間との勝負に勝てるかは正直わからない。

「目障りだから下がれと言われましたし」

 勝千代がそう呟くと、朝比奈殿の眉間にしわが寄る。

 駄目だぞ。公家に反発しても碌な事にならない。遠江に戻れば大した被害もないだろうし、あの手の人間は無視するに限る。


 平らなところで地面に降ろされて、確かめるように足元を踏みしめていると、「よろしいのですか」と再び尋ねられた。

 伊勢軍五百を無傷で退けた武功を、無下にされて黙っているのかと聞かれているのだ。

 勝千代は、軽く身体をかがめてこちらを見下ろしている朝比奈殿に、「いいんですよ」と言葉を返した。

 人的被害がほぼなかったからこそ、暢気に言える事だ。

「正直なところ、これ以上朝廷と係わっていいことがあるとは思えません」

 武家が帝に刃を向けるなどと、ややこしい事態になるのは避けたかったから手を出したが、今川家の立場的にも距離を置いた方がいい。

「将軍位についても、これ以上我々が口を出す謂れはありません。偉い方々に決めてもらえばいい」

 勝千代はまだ揺れているように感じる地面をつま先でつついた。

「後は見届けるだけで済めばいいのですが」

 このまま大きな動きのないうちに、両陣営が和睦にこぎつけてくれるとありがたい。


 しばらく歩いていると、今川家の陣旗が見えてきた。

 昨晩かなり降ったはずなのに、濡れている気配もないパリッとした陣屋だ。

 現代のように速乾生地などないだろうから、濡れないように気を配る役目の者がいるのだろう。

 そう言えば武具も武器も兵糧もそうだ。雨で濡らさない工夫があるのだと思う。

 逢坂老ならば知っているだろう。軍馬は生き物だから、特に注意して保護する必要があるはずだ。

 今度聞かねばならないなと、そんな事を考えながら徒歩で近づいていくと、長槍を持った兵士が並んで出迎えてくれた。

 どの者の鎧兜も、やはり濡れている気配はない。夕べはみんなで蓑をかぶって凌いだのだろうか。


 総大将朝比奈殿の無事の帰還に、皆ほっとした表情を隠さなかった。

 訓練された動きで最敬礼の姿勢をとり、ぞろぞろと帰還してくる軍勢を出迎える。

「お勝殿!」

 やけによく響く声がして、顔を上げると、少し遠い位置に左馬之助殿がいた。黄備えの立派な鎧兜で身を固め、その手には重そうな長槍が握られている。

 その、いつでも出陣できそうな鼻息ぶりに、ようやく戻って来たと気を抜きかけていた勝千代はぽかんと口を開けた。


 どこに攻め込む気なのかな。

 戦は昨晩で打ち止めであってほしい勝千代は、ひくりと頬を引きつらせた。

 しかもその隣にいるのは松永青年ではないか。あの黒い鎧はなんだ。男前渋沢を彷彿とさせる真っ黒ぶりだ。……いや違った。黒に見えるほど暗い、チャコールグレーのような色合いだった。

 勝千代があまりにもまじまじと見つめているので、松永青年は少し気恥ずかしそうな顔をした。

 そうか、彼も戦うつもりだったのか。

 武功を上げたいというよりも、凋落寸前の幕府の姿にいてもたってもいられなくなったのかもしれない。


 それからもう一人、見覚えのある顔があった。

 松田殿の息子九郎殿だ。

 こちらもしっかりとした造りの鎧を身にまとっていた。苦労などしたことがなさそうな青年だったのに、その表情はひどく険しい。

「……父の遺言で参りました」

 吉祥殿に無礼打ちされた幕臣松田殿は、かなりの重傷で臥せっていると聞いていた。そうか、生き延びる事は出来なかったのか。

「松田殿は何と?」

「行く末を見届けろと」

「そうですか」

 松田殿は、足利幕府の終焉を予感していたのかもしれない。


 いや、まだその時ではない。

 勝千代はしんみりと頷きながら、覚悟をきめたような松田青年の顔をじっと見上げた。

 たとえ形だけにせよ、武家を統率するシステムとしての幕府は必要だ。

 そうでなければ、日本全土が収拾のつかない戦乱の世になってしまうだろう。

 理想としては……そう、信長のように大きな勢力を持つ力ある武将が出て来て、誰もが将軍家が交代することに異議を唱えない状況にまでもっていき、その上で、時間をかけて緩やかに移権するのが望ましい。

 ……まず無理だろうけど。


 今回の事で足利家はますます力を弱めるだろう。

 代わりの将軍を擁立する細川陣営が、とりあえずの権力を保持すると思う。

 こうやって見てみると、伊勢殿のやりたかったことも理解できるのだ。

 幕府の権力を細川一族に専横されることを良しとしないのなら、伊勢一族をまとめぶつけると言うのも悪い手段ではない。

 だが強引すぎた。もっと時間をかけて話を詰めておくべきだった。

 何か、急がねばならない事情があったのか。

 あるいは、偶然に偶然が重なり、思ってもいなかった速度で事が動いてしまったのかもしれない。


 勝千代は晴れ渡った空を見上げた。

 同じ空の元で、伊勢殿は今何を思っているのだろう。

 ……殺してやりたいほど恨まれているんだろうな。

 今さらだが、複雑な気持ちになった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 左馬之助殿はいい加減、自分が北条軍の総大将だという事を思い出してもろて。協力的なのは有難いですけど、現状どう見ても勝千代殿の与力か何かとしか・・・。 これ帰ってから何かこじれるフラグじゃない…
[一言] まあ、恨まれてるでしょうねぇ…
[一言] 松永さんと松田さん、これからどうするんでしょうね。 なんだか未来がアレとは思えない、綺麗な松コンビですが、未来の梟雄&佞臣フラグは折れたのかな?
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