26-2 叡山 雷雲一過2
「……ええのか?」
改めて話し合おうということで、取り急ぎ帝の元へ戻っていった権中納言殿を見送っていると、その場に残った東雲にそう問われた。
言いたいことはわかる。武士にとって武功は誉れだ。それをあっさり「なかったこと」にするなど、通常であれば受け入れられる事ではない。
武士ではない東雲ですらそう思うのだから、今回戦った今川軍の者たちも似たような心情だろう。
だが、勝千代にとってはむしろ都合が良いのだ。
「ええまあ」
勝千代はちらりと東雲の顔を見上げてから、苦笑した。
「国元に戻った時に、伊勢本家に敵対したと責められそうでしたので」
東雲は形の良い細い眉を寄せ、難しい表情になった。
帝に弓引こうとした伊勢家など、どうでもいいではないかと言いたそうだ。
「今川の母系は伊勢家です」
「いや、だからと言うて……」
一族の弑逆を未然に防いだのだから、むしろ汚名をかぶらずに済んでよかったと褒められこそすれ、それが責められる要素になるということが東雲には不可解だったのだろう。
ちなみに言うと、北条は父系が伊勢氏だ。左馬之助殿とその兄との関係性にもよるだろうが、叱責される可能性も大いにあり、それゆえに今回の迎撃では直接対峙しないよう離れた位置を任せたのだ。
「名声も褒美も必要ありません。そうですね……今ここでちょっとだけ褒めてください」
勝千代は東雲に向かって、子供らしく無邪気に笑った。
「私は東雲様に褒めて頂く、今川の者たちは私が褒める。今回はまあ、それでいいとしましょう」
「……はあ」
きょとんとした東雲に向かって、「さあ褒めろ」と急かす。
いくらかあっけにとられていた東雲だが、やがて諦めたように勝千代の頭に手を置いた。
「こんなものでええのか」
「何も無かったことになるのでしょう?」
「……そうやな」
東雲は眉間に皺を寄せながら勝千代の頭を撫で続けた。
なんだか無理やり撫でさせたようで気が引けたので、こっそりと事情を教えておく。
「こちらにも得るものはありました」
「……?」
「伊勢殿が隠し持っていた米蔵を押さえています」
耳元でのその内緒話に、東雲は驚愕の表情で目を見開いた。
「駄賃に帰還分の兵糧を頂いていくぐらい良いでしょう?」
まじまじと視線を返され、再びにこりと笑顔を向ける。
「その他にも、いくつか取り次いでいただきたいことがあります。権中納言さまはお忙しそうですので、代わりに聞いていただいてもかまいませんか?」
例えば、本来の目的である龍王丸君の元服の報告とか。
もともとは幕府に報告とお礼を言いに来たのだが、もはや幕府はないも同然なので、代わりにその報告を受け取ってもらえる先を探していた。
朝比奈殿が幕府に渡すはずだった御屋形様の書簡を、朝廷が代わりに受け取ってくだされば言う事はない。
それで今川軍の用は済むのだ。
あとは、今回の騒乱の仲裁だ。
伊勢殿はもはや進退窮まる状況だが、幕府に居座っている義宗殿をはじめ、幕臣の多くは事情を知らずまだ下京にいるだろう。
今や下京を支配している六角軍との調停がメインになるかと思うが、彼らと両細川家との仲裁に名乗りを上げてほしい。
帝あるいは朝廷が表に立って仲裁する事に問題があるのであれば、内密に勅書を出していただくだけでも十分だ。
武家がそれを拒否する事はできない。
それほどまでに、帝の御言葉は大きい。
昨今、帝や公家の力が弱まっていると言われている。
それは歴史から見ても実際にも紛れもない事実だが、かといって非力になっているわけではない。
武家の棟梁である将軍ですら、立場はその臣であり、帝の御前では頭を垂れなくてはならないのだから。
難題を押し付けられ頭をかかえた東雲を引き連れて、勝千代は再び本陣にしているお堂へと引き返した。
隣を歩く貴公子然とした東雲の、真っ白な袖が強風にあおられパタパタとはためく。
その泥跳ねひとつない清廉さに、この悪路のただ中でどうやってそれをキープしているのか尋ねたくなった。いや、聞くとするなら鶸にだろうか。
「のう、お勝殿」
白物に泥汚れは天敵だよな……かつて体操服が上下ともに真っ白だったことがあり、汚すなと親にきつく言われたことを思い出していた勝千代は、一瞬返事が遅れた。
「……はい」
「多少耳障りな事を言われるかもしれへんが、聞き流して欲しい」
京訛りにしては直接的な言い方だった。
勝千代は訝しみながら傍らを見上げ、東雲の表情が見たこともないほど渋い事に気づく。
何を……と尋ねるまでもなかった。
嵐一過の様相のお堂の前に、東雲よりも煌びやかな装いの公家たちが集まっていたのだ。
武家の顔など見たくもないと、普段こちらと接点を持とうとしない公家は多い。権力財力ともに欲しいままにしている武家に対して、思うところがあるのは十分に理解している。
だからどうということはない。
勝千代とてそんな方々に用はないし、向こうも同じ思いなら、お互いに接触しなければよいのだ。
接する機会がなければ揉め事も起こらない。
そう、接する機会がなければ。
派手な集団の前には、立ち去ったはずの権中納言様の後ろ姿がある。
「わきまえるのはそなたらの方や」
聞いたこともないほどの冷ややかな声でそう言って、一条権中納言様は手に持っていた扇子を公家の集団に突きつけていた。




