26-1 叡山 雷雲一過1
本日は快晴。
夜明け前には雨はやみ、次第に雲も遠ざかって行って、太陽が顔を出す頃には晴れ渡っていた。
昨夜の豪雨は何だったのかと思う程、見事な青空だ。
ただ風が強く、その分はやく雷雲が去って行ったのだろう、びゅうと強い風の音が耳の横を通り過ぎて行く。
「やあ、これはすごい」
弥三郎殿の間延びした声が、まさしく勝千代の思うところだった。
昨夜出払っていた者たちはすでに帰参している。
負傷した何名かを除き、皆すでにきっちりとした鎧兜の武装に身なりを整えていた。
数時間前までは、ほっかむりや蓑をかぶった山賊風味だったのに、いまやキラキラしい武家集団だ。
誰もどこも一戦かわした気配すらなく、傷ひとつない鎧兜が朝日を照り返して眩い。
勝千代? ……相変わらず紺色の直垂だよ。子供用の鎧兜はもちろん、小具足ですら用意してないし。
「やりすぎましたかな」
井伊殿の「はっはっは」という笑い声が、けたたましく鳴く鳥の声に重なる。
鳥らもびっくりするよな。いきなり住処がごっそり消失したのだから。
若干現実逃避していた勝千代が傍らを見ると、呆けたように山の惨状を見ている者以外は、皆何故かこちらに顔を向けていた。
「……素晴らしい手際ですね」
どう見てもやりすぎだこの野郎。
そう言ってやりたかったが、年上だし、配下でもないし。
逢坂の息子と目が合って、「よくやった」と頷き返すと、彼らだけではなく周囲の者たち皆が一斉に表情を緩めた。
強い風が音をたてて唸る。
だがその音はさわやかで、すべての匂いを吹き飛ばしてしまう程の強さだ。
たった数時間前に、五百人もの人間が押し流され、土砂に埋もれたとは到底思えない、春らしい眩しい晴れ間だった。
「報告は受けましたが、説明して頂けますか? どのあたりで伊勢軍を?」
まあ、ざっくりとは見ただけでわかる。
見晴らしの良いこの場所から見下ろす地形は、雨による浸食が多い凸凹としたもので、京の町の方から遠目に見るよりもずっと樹木が少ないように見える。
つまりは、昨夜の雨であちらこちらで土砂崩れがあり、ひときわ大きな被害が「とある箇所」で集中して起こっているのが生々しくわかるのだ。
その一帯だけ不自然に木がなく、遠目にもわかるほど地形が抉れ、土の色が露出している。
「伊勢軍はあの、大きな松の木のあたりから……」
井伊殿のウキウキとした口調の説明を聞き、何度も頷く。
時折質問を挟み、根掘り葉掘りと聞き出したところによると、やはり雨で色々と不測の事態は起こったようだが、おおむね計画通りに伊勢軍は進み……がっつりと罠にかかった。
あのぶんだと朝比奈長弓隊の出番はなかったんじゃないか。
「お疲れさまでした。味方に被害がほぼなかったことが何よりです」
勝千代はそう言いながら、もう一度、五百人が埋まっている山の斜面を見下ろした。
叡山はそれほど高い山ではないが、山は山だ。人里から遠いこの地で、彼らはこのまま掘り起こされることなく、長い時間をかけて大地に還るのだろう。
弔った方がいいのかと一瞬思ったが、即座に否定する。
ここは叡山。僧侶なら山ほどいる。
勝千代が何も言わずとも、誰かが手を合わせてくれるだろう。
「お勝殿!」
出っ張った展望台のような岩場に立って、周囲を見回していた勝千代は、大声でそう呼びかけられて振り返った。
足早に近づいてくるのは、公家らしい高貴な身なりの一条権中納言様と、今までどこにいたのか、随分久方ぶりに見た気がする東雲だ。
怪我をした土居侍従の代わりに、顔だけ知っている若い侍従が付き従い、灰色狩衣姿の鶸もいた。
「無事やったか!」
近づいてくる公家たちに気づいて、今川軍の鎧武者たちがガチャガチャとその場で膝を折る。
まだ地面がぬかるんでいるので、泥で汚れてしまうだろうが、だからといって突っ立っていてよい身分差ではない。
井伊殿も朝比奈殿も、皆がその場で畏まると同時に、勝千代も膝をついた。
岩場とはいえあちこちにまだ水がたまった状態で、袴越しにすぐに湿り気が伝わってくる。
勝千代は駆け寄ってきた権中納言様の手によって、すくい上げられるように立たされた。
「伊勢が攻めてきたと聞いた」
「はい」
両腕をぎゅっと掴まれた状態で、勝千代はちらりと背後の無残な山肌へ視線を向けた。
「すでにもう土の下ですが」
権中納言様もそちらに目をやり、若干驚いた様子ではあったが、とくに表情を変えることもなく、落ち着いた口調で続けた。
「……御上のご判断により、この件は伏せられる」
勝千代は自身の腕をつかんでいる権中納言様の顔を見上げ、首を傾けた。
それはつまり、この襲撃がなかったことになるということか?
勝千代は至近距離にあるその顔をまじまじと見返し、「そうですか」とひとつ頷きを返した。
よく考えればわかる事だ。
武家が帝を襲撃しようとしたなどと、醜聞も醜聞、とても赦されることではない。
誰もが非難するだろうし、伊勢殿……いや幕府は方々から極悪人のように扱われるだろう。
帝はその罪を広く世間に知らしめる事よりも、武家社会がこれ以上揺らぐのを忌避なさったのだ。そういう前例があったという事実を、消したかったのかもしれない。
「わかりました。ではそのように」
不快を露わにするまでもなく、コクりと頷いた勝千代を見下ろし、言い出した権中納言様の方が顔を顰めた。
命を掛けて戦ったのに! と、抗議されると思っていたのだろう。
これで自軍の大勢が死んでいればそんな気も起ったのかもしれないが、被害は数名の骨折だけだ。
むしろ、死んでいった伊勢軍の者たちの方が哀れだ。
その存在も何もかも、無かったことにされるのだから。




