25-8 叡山防衛8
暗い空がピカリとひかり、しばらくしてゴロゴロと不穏な音が聞こえてきた。
次第にその間隔が狭まっていき、やがて一秒よりも間を置かず重低音の響きが空気を震わせる。
雷鳴がどんどん近づいてくるのがわかる。
もうすぐこの辺りにも落ちるかもしれない。
やはり山は危険なところだ。雨もそうだが、雷も怖い。
この雨だから火災は起こらないだろうが、そういえば山火事の大きな原因のひとつが落雷だと聞く、避雷針という文明の利器が発明された後でさえそうなのだから、戦国時代の今、どこに落ちるかなど予想するのは難しいのだろう。
勝千代は胡坐をかいて目を閉じていた。
寝ているわけじゃないぞ。瞑想しているわけでもない。
電波的な何かを受信して、落雷の位置を特定しようとしているのでもない。
ただ、待っていた。
きたるべき時を。
第一陣の勢子役が出立してから一刻半。予定では、井伊殿の工作部隊が作業を終えている頃だ。
忍びからの定期連絡で、井伊殿の望むような仕掛けが出来そうだと報告を受けたが、人づてに聞いただけでは詳しいことはわからない。
勢子役の逢坂の息子が、いつ、どの程度の精度をもって仕掛けの前に伊勢軍を追い込めるかにもよるだろう。
無線も電話も、時計ですらないので、タイミングを合わせる事も困難のはずだ。
ただ盛り上がる気運というか、そろそろだろうという感覚がどこかにあった。
ピカッ。
ドドドドン!!
ひと際明るい雷光と、地響きを伴う落雷の音。近い。
強い土の匂いがした気がした。
勝千代は立ち上がり、ざあざあと凄まじく吹き付けてくるお堂の外に目を向けた。
何故か、はじまったのだとはっきりわかった。
耳を澄ませても、激しい雨音以外の何かが聞こえるわけではない。
怒声も、悲鳴も、何もかもが雨音に紛れている。
ただ、強い土の匂いと、生々しい水の匂いがした。
「若、まだですぞ」
逢坂老に窘められて、はっとする。
「どんと構えてお待ちあれ。すぐに良い知らせが参るでしょう」
暗がりの中に浮かび上がっているのは、見慣れた皺深い顔だ。
常と変わらぬその面に、勝千代は小さく息を吐いてから頷いた。
今、大勢が命を掛けて戦っている。
今川軍側はもとより、伊勢軍もだ。
そしてこの一秒、一呼吸の間にも、誰かが死んでいるだろう。
恐らく個々を見たなら、死に値する者などいないはずだ。ただ敵だった。それだけの理由で命は狩られ、闇の中に消えて行く。
不意に、周囲に大勢の亡霊が立っている気がした。
恨みがまし気に勝千代を見て、怨嗟の手を伸ばそうとしている。
もちろんそれは錯覚で、弱い心が見せた幻影だ。
だが、勝千代の命令で失われていく命は確実に存在し、今後も増え続けていくだろう。
武士でいる限り、それはずっと背負っていかねばならないものだ。
再びすとんとその場に腰を下ろし、腕を組み目を閉じた勝千代を、周囲の大人たちがじっと見守っている。
見定められている。量られている。
勝千代は不安を露わにするよりも、やせ我慢することを選んだ。
遠くない将来、彼らの同輩あるいは将として軍を率いる日が来るだろう。この程度の覚悟ができずにどうする。
その第一報は、段蔵の手により届けられた。
福島軍の忍び頭直々の知らせに、緊張していたのは勝千代だけではないはずだ。
それなのに誰もが落ち着き払っていて、鳴り響く雷雨の音以外は、いたって普通の軍議の様相だった。
朝比奈殿や逢坂老ら、主だった者たちが集まる中、段蔵は静かに頭を下げた。
「終わりました」
それはどういう意味だ?
伊勢軍がここまでたどり着いていないのだから、今川軍が敗北したとは思えない。
うまく行ったという意味だろうな?
勝千代はそう問い詰めたくなったが、すぐに言葉は出て来なかった。
正直に言おう。味方が酷くやられてしまったのではないかと、恐ろしくなったのだ。
「こちらの被害は」
代わりにそう尋ねたのは朝比奈殿だ。
「足を滑らせ骨を折った者が数名」
「まあ、仕方がありませんな。こんな雨ですから」
段蔵の報告を聞いて、弥三郎殿がのんびりと首筋を掻いた。
大人たちは周囲の者たちと顔を見かわし、しきりと頷きあっている。
「妥当なところでしょう」
逢坂老はさも当たり前のようにそう言って、莞爾と笑う。
被害がそれだけということは、勝ったのだろう。つまり伊勢は敗退したのだ。
どの程度の被害を与えたかにもよるだろうが、ただ追い返しただけならば、まだ油断するのは早い。
「それで、伊勢軍は?」
勝千代の問いかけに、段蔵はまっすぐ顔をこちらに向けた。
ピンと伸びた背筋。両手は軽く板の上につけられている。
その両手をさっと前に出し、深々と頭を下げた。
「ひとりたりと逃れた者はおりません」
誰かが感に堪えない様子でため息をついた。
詳細はまだわからない。
落雷がはじまってしばらくの間、おそらくはそう長くない時間のうちに、一体何があったのか。
勝千代がそれを知るのは、一晩かかってようやく雨がやみ、打って変わって眩い太陽がすべてを照らし出してからだった。




