25-7 叡山防衛7
最後まで見届けるべきだ。
少なくとも今回は強くそう感じた。
命の危機さえ感じさせる豪雨。大自然の猛威は、令和の時代になってさえ人間の思うようになるものではない。
そんな中、皆に命がけでの作業をさせるのだ。
結果がどうなるのか、この目で確かめておきたかった。
だが勝千代の思っている以上に、勝千代自身は非力な子供だった。
豪雨の中では独力で立って歩く事すら危うい。
大将であれば、最後尾にいるべきだと諫言してきたのは逢坂老だ。
いや総大将は朝比奈殿だろう。
そう言い返そうとして、濡れそぼった大人たちの視線がこちらをじっと見ていることに気づく。
子供だから、と言われない事がなおいっそう口惜しかった。
何故こんな貧弱な身体で生まれついたのだ。何故まだこんなにも幼いのだ。
「まあそのうち我らも年老い、足腰立たなくなればお役御免となります。そうなったら勝千代殿にお任せすることになります。順番ですな」
「ははは」と笑い飛ばした井伊殿が、おそらくもっとも危険の多い役割だ。
勝千代はぐっと奥歯を噛みしめ、仲間の足を引っ張らない為にも奥で大人しくしていることを受け入れた。
その時は気づかなかったが、皆それぞれに覚悟を決めていたのだ。
命を掛ける覚悟ではない。この策を無事成就させる決意だ。
そのためであれば命も掛けるし、望まれている以上の事もやってみせる……と。
危ういと感じれば引けと命じた勝千代の顔をじっと見て、「はい」と答えたその内心をわかっていなかった。
要するに、それぞれが張り切り過ぎたのだ。
福島勢は自前の地味色の装いで伊勢軍を追い立てるべく、一足早く出立した。田所の部下を含む二十名だ。隊長は逢坂老の次男に任せた。忍びが用いる相当に険しい近道を使うのだそうだ。
伊勢軍五百に対して二十と言うのはいかにも少ないが、彼らの役割は勢子だ。暗闇で伊勢軍を追い立て、先へ進ませる役割だ。数を多くすればむしろ迎撃される危険が増し、動きにくいのだそうだ。
福島の残りの者の半数は勝千代の護衛につき、残りの半数は井伊殿に助力するべく、なかなか気合の入った格好で出立していった。具体的には、三角笠にほっかむり、分厚い蓑にブーツのような滑りにくさ重視の編み上げ草履だ。
できるだけ身軽にという事で、武器は小太刀一本。あとは木を切る斧。
初めて間近で見たのだが、井伊殿の子飼いの穴掘り集団は福島勢より一回りも二回りも屈強な男たちで、筋骨隆々を通り越して小山のような人夫たちばかりだった。
鉱夫と呼ばれるのもさもありなん、もちろん武器を持っても強そうだが、ツルハシとかスコップの方が似合いそうなビジュアルだ。
そしてひと際毛色の違う朝比奈軍長弓隊。
キラキラしく近寄りがたいイメージだったが、フード付きコートのように蓑を全身にまとえば、どこの山賊だという印象になってしまった。
隊長は朝比奈殿の側付きでもある日置殿だ。
彼の腕にあるのは、黒光りのする長い弓だった。
和弓は勝千代が漠然と想像していたものよりひょろりと長く、この時代の大人の身長を軽く超す。おそらくは二メートル以上あるだろう。
その威力はかなりのもので、細川京兆軍に射掛けた矢が細い木を貫通し稀に粉砕する様を見れば、鉄砲より貧弱だなどと馬鹿にはできない。
ともあれ三者三様に、やけに真顔で勝千代に頭を下げてから陣を離れて行った。
無理難題であれば申せと言ったのだが、皆が「問題ない」という。
それをどこまで信じていいものかわからず、真っ暗闇の豪雨の中送り出すのはかなり不安だった。
時刻はそろそろ子の刻に差し掛かろうかという頃。相変わらず空は真っ暗で、大地は漆黒の闇に包まれている。
微塵も明るさがないかと言えばそうではなく、ほのかにものの輪郭はわかるのだが、ざあざあと斜面を流れ落ちる雨水のお陰でなおのこと足元が危うく、普通に歩くのにさえ滑落の危険が伴う。
やはり危険だったのではないか。
気を揉む勝千代の落ち着きのなさをどう思ったのか、同じく待機組の朝比奈殿が軽食を差し入れに来た。
握り飯に漬物。
令和の感覚だとかなり塩辛く、握りすぎて固い玄米飯と、しなびた大根の糠漬けだ。
今はそんなものを齧っている余裕はない。そう答えようとして「ぐう」と腹が鳴った。
「白湯を沸かしましょう」
南がそう言って席を立つ。
勝千代は空腹でもないのに腹が鳴ったことに首を傾げた。
「腹ごしらえも大切ですぞ」
笹の包みは逢坂老の所にも回ってきて、ひどく嬉しそうに相好を崩した。
仕方がないので受け取ろうと手を伸ばしかけたその時。
ピカリ、と天空に閃光が走った。
無意識のうちに「一、二……」と数を数え、それが「十」まで言った瞬間に、ゴロゴロと雷の音がした。
約十秒かかったという事は、三キロ以上遠くで鳴っているということだ。
もちろん安心はできなくて、風向きによっては近づいてくる可能性も十分にある。
何より気になるのは、さらにもっと雨足が強まった事だ。
大豆を太鼓の上に落としたようだった雨音が、豆の量を増やしてもっと激しく叩きつけるような音に変わってきている。
これ以上雨量が上がれば、特に土木作業をしている井伊殿らにとってかなり危険だ。
やはり中止にするべきか。
そう言おうとしたところで、再び空が光った。
明るい光が一瞬にしてお堂とその周辺を昼間のように照らす。
まるでカメラのフラッシュのように、網膜にその光が焼き付いて目の奥が痛んだ。
そしてしばらくして、また雷鳴。
数を数えてはいないが、確実に近くなっている。
勝千代は握り飯の包みを両手に持ち、激しさを増す雨の向こう側に目を向けた。
「えらく降りますなぁ」
逢坂老がのんびりした口調で言う。
もぐもぐと、握り飯を頬張りながら。
まるで大したことではないと言いたげなその口ぶりに、勝千代は反論しかけて黙った。
そうだ、すでに賽は投げられてしまった。
今さら作戦を取りやめる事は出来ない。
握り締めていた笹の包みを見下ろして、再び「ぐう」と鳴った腹を軽くさすった。




