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春雷記  作者:
京都編

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25-5 叡山防衛5

 日が暮れてそう経たないうちに雨が降り始めた。

 降り始めはしっとりと空気が湿るような小雨だったが、やがて遠くからゴロゴロと不穏な音が聞こえてくる。

 顔を顰めながら睨んだ空は暗く、ぶ厚い雲が重そうに広がっていた。

 この分だと、一晩中降るかもしれない。

 しかも、刻一刻と雨粒が大きくなっている気がする。


 勝千代は山の木々が騒めく音に耳を澄ませた。

 小雨のうちは木の葉に打ち付ける音もわからないほどだが、次第にそれも激しさを増し、やがて全方向から響くノイズ音のように激しく打ちつけてくる。耳がおかしくなりそうだ。

 暗い闇夜。激しい雨足。

 もちろん松明など役には立たず、下手をしたら数メートル先の味方の顔すら判別できない。

 こうなってしまえば、敵がどこから来るか察知するのも難しかった。

 それは敵も同じ条件ではあるが、守る方がより不利なのは明白だ。


 勝千代は騎馬と人力だっこで数時間運ばれて、雨が本降りになる頃にようやく目的地に到着した。

 叡山は叡山だが、城でいう本丸にあたる東塔エリアではない。

 伊勢軍が南側から襲撃してくると考えて、それよりも前に布陣した。

 だが、午……つまり南だと言われた方角に目を凝らしてみても何も見えず、視界に入るのは雨と、雨と、果てしなく続く昏い闇だけだ。

 手書きの地図と、かつての記憶とを加味した卓上理論では、人知を阻む大自然の詳細など把握することはできない。山並みの一部どころか、一本先の樹木ですらはっきりと視認できないのだ。

 例えば、数メートル先に崖があったとしても、よほど注意していないと見逃してしまいそうだ。


「何も見えないな」

「さように御座いますな」

 打ちつける豪雨に辟易しながらそう呟くと、勝千代を幼い子供のように抱えた南が同意した。

 その南の顔すらも、暗いのと、三角帽子の笠の影になっているのとではっきりとわからない。

「まさに奇襲日和」

 うんざりとした勝千代の台詞に、周囲でぶふっと男たちが笑う。

 誰かが窘める気配がしたが、咎め立てはしない。笑う元気があるのは良いことだ。

「敵がいつ来るかわかりませぬ。いや、あと数刻は参りますまい。取り急ぎ見張りは我らに任せ、濡れた服をお着換えください」

 暗がりのどこからかそう言うのは、三浦兄だ。

 風邪をひくと言いたいのだろう。

 確かに、すでに下帯までびっしょりで、身体が冷え切っている。

 蓑を体に巻き付けていても、完全に防撥水してくれるわけではないのだ。

 確かに蓑に当たった雨は藁を伝って下に落ちるが、これだけの豪雨になると、伝って落ちた雫が袴の裾から染みてくる。

 襟元から入ってくる雨水と合わさって、結局は全身濡れネズミだ。

 だが、周囲の皆が雨に濡れ厳戒態勢を続けているというのに、ひとりだけのんびりお着換えというのは……いや、虚弱体質の子供が濡れて震えていたら、勝千代だって着替えて暖かくしているようにと言っただろう。


「雨で足元が緩んでおります。このままお運びします」

 そう言って、南は、勝千代がどうするか返答する前に最前線から下がろうとした。

 その足元は確かに水浸しで、踏みしめる地面は浅瀬の川のようだ。

 そこかしこで帯のような流れが出来ていて、山の土色に染まった雨水が斜面を伝って茂みの奥に消えて行く。

 これだけ一気に雨が降ると、どこかで崖崩れが起きるのではないか。

 そんな心配が脳裏をよぎる。

 気を付けるようにと言おうとして、その言葉が喉に引っかかって止まった。


 太い立派な柱が目を引くお堂へは、踏みしめられた石畳と数段ほどの階段を上って入る。

 柱もお堂の造りも頑丈なもので、多少の雨風などなんということもないだろう。

 ただその軒から滝のような雨が降り注ぎ、外に面した木製の階段や回廊をかなりの量の雨水が流れ落ちて行く。

 雨から逃れるようにその軒先に入り、バケツリレーをするように南から別の誰かの手にひょいと預けられた。

 どこもかしこも雨水が川のように流れている。

 いくら日本が雨の多い国だとはいえ、これほどの雨量はめったにない。

「お勝さま?」

 やはり床は濡れているが、直接雨が当たらない屋根の下に入り、ようやく両足が硬いものを踏んだ。

 膝立ちになり、至近距離で覗き込んできたのは土井だ。

 心配そうに名を呼ばれ、顔を上げると、大量の雨のしずくがざばりと笠を伝って落ちた。

 土井は手早く勝千代の顎の紐をほどき、濡れている三角の笠を外した。

 そしてぐいぐいと顔を拭われる。

「……痛い」

「あっ、申し訳ございませぬ!」

 返事があったことに安堵の顔をされ、けっこう長い間黙り込んでいたことに気づいた。

 具合が悪いのかと心配されたのだろう。

 手慣れた様子で勝千代の世話を焼く土井は、本来は父の側付きだった。

 出会った最初の頃は、勝千代の面倒を見る手つきもたどたどしいものだったのに、いつの間にか熟練の手際だ。


「……弥太郎はいるか」

「はい」

 勝千代が呼ぶと、お堂の奥の方から間を置かず返事があった。

 視線を巡らせ声のした方向を見ると、珍しく小袖に袴姿の弥太郎がいた。何故かまったく濡れておらず、暗い板間にきちんと膝をそろえて座る様は、この男の存在に慣れている勝千代にしてみても、かなり異様なものとして映った。

 一瞬の間の後、問いかける。

「伊勢軍の位置はわかるか」

「五人に追わせております。見失う事はないかと」

「用心しながら進んでいるのだろうな?」

「雨が強すぎ行軍に手間取っているとは思います」

 五百人でこの雨の中、山道ハイキングはきついだろう。

 勝千代は頷き、ごしごしと土井に濡れた手足を拭いてもらいながら、じっとこちらを見ている真顔の役人顔を見下ろした。

「足場の悪い谷に差し掛かる刻限が知りたい」


 太鼓の上に大豆でもまき散らしているかのような激しい雨の音が、続く沈黙を塞いだ。

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― 新着の感想 ―
[良い点] お久しぶりです 槐さん、何度読んでも面白いです ありがとう
[一言] 敵味方の誰もが守勢は待ち構えているものだという固定観念でいる中、あえて打って出るのは戦の玄人過ぎでは? 大好きです。
[良い点] 次が読みたくてたまらない。
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