25-4 叡山防衛4
朝倉軍が夕刻の陰影に紛れて撤退をはじめている。
その動きはさながら大砂時計の砂に似ていて、引き口から少しづつ減ってはいるがすぐに消え去るわけではない。
高台から見えるその流れはひどくのろのろとしたもので、そう見える八割がたの理由が大軍故だ。
若干動きが鈍いのを訝しむ者はおらず、兵糧が枯渇していると知っている者は食い物がないせいだろうと思い、事情を知っている勝千代は「うまいな」とその巧みな行軍に感心した。
今川からの兵糧を堂々と受け取り、その破れのない米俵を小荷駄隊が引いていく。
誰もそのほとんどが、北条からの小石まみれの俵だとは想像もしないだろう。
朝倉軍はまるで見せびらかすように小荷駄隊の兵糧を守り、ゆっくりと、周囲の視線を浴びながら上京から撤退していく。
一糸乱れぬ、いや乱れている所もおそらくは意図した動き。
宗滴殿だけではなく、その配下の者たちも皆、優れた操兵能力の持ち主なのだろう。
「……あそこをご覧になってください」
勝千代を馬の前に乗せ、高台からともにその様子を見ていた逢坂老が、朝倉軍の一角を指さした。
「細川の軍勢を気にしているのか」
「隊列が乱れればそこから攻め込まれるやもしれませぬ」
撤退の様子を見守っている細川京兆軍に対面した場所だけ、兵の層がぶ厚い。
「しんがりは騎馬隊ですな。足場が悪いにもかかわらずよく長槍隊を守っております」
「伊勢六角軍は見えるか?」
「少なくとも近辺にはおりません」
大軍が動く様を実際に見た経験などそう多くはないが、朝倉軍の動きはそのどれもと違っていた。
まるでマスゲーム、某体育大学の団体行動のように洗練されたものに見える。
「見事なものだ。……あれを目標になさるとよい」
逢坂老の呟きに、苦笑する。
無理だと口に出して言いたくなるほど、高すぎる理想だ。
これだけ距離があるにもかかわらず、目に見えてわかるほどの細やかな動き。兵の練度も高い。
「……満を持しての上洛、というわけではなかったのだろう?」
「そうですな、宗滴殿はご当主ではありませぬ」
つまりは援軍として……あるいは今川北条軍のように別名目での上洛。
「兵糧の事がなければ、伊勢殿を押しのけ京を取ることもできたのではないか」
北陸の雄が足利幕府の後見としてにらみを利かせる……悪くはないと思うのだが。
「できるかどうかではなく、したいか否かでしょうな。野心がないのであれば、無理に手を突っ込み火中の栗を拾おうとはなさるまい」
含みのある言い方に、ちらりと逢坂を振り仰ぐ。
まるで、勝千代自身のことを言われているようだった。
目が合って、気のせいではないとわかったが、かといって逢坂がどう感じているかまでは伝わってこない。
「……美味いのはわかっていても、火傷してまでは食いたくないのだろう」
「爆ぜたら怪我をしますので、食う気がないのなら近づくべきではありません」
「それは宗滴殿のことか?」それとも勝千代の事か?
言外の問いに、逢坂はうっすらと笑った。
「焼き栗の話に御座います」
勝千代は苦笑いをして、「そうだな」と返した。
言われてみれば、宗滴殿の立場は勝千代と似ているかもしれない。
朝倉家当代は兄だろうか、甥だろうか。
有能で力を持ちすぎた一門衆は危険視されがちだが、あれだけの人物を味方として呑み込むだけの、深い信頼関係があるのだろう。
羨ましい事だ。
ふっと足元の茂みに影が動き、視線を落とすと段蔵が膝をついていた。
勝千代の視線を受けて頭を下げた忍び頭の姿に、「ふう」と息を吐く。
「動いたか」
返答に、もう一段頭が低く下がる。
「東山の尾根沿いに北上しています」
「数は」
「五百」
朝倉が撤退してしまえば、伊勢殿はますます劣勢だ。それは御本人もよくわかっているだろう。
ではどうすると考えた場合、取れる手段は多くはない。
御存知だとは思うが、叡山というのは山の名前で、霊峰と呼ばれるその山のいくつかのエリアに分かれて寺が建てられている。それを総じて「比叡山」と呼ぶ。
山城のように、攻められる事を前提に考えられた構造をしているわけではなく、しかも建物が点在しているので、防衛面では非常に危ういのだ。
叡山のそれぞれのエリアへ向かう道筋はいくつかあって、京から川を渡って北東へ進むルートは、実は表参道ではない。
琵琶湖……淡海のそばにある坂本という町から山へ向かう本坂が本来の参道で、そのほかにも尾根沿いに北や南から続いている道もある。
帝がどこにおわすかについては、勝千代ですら聞かされてはいない。
ただ、各陣営の軍がひしめく京側を今川軍が塞いだとしても、違うルートで攻め込まれる可能性はもちろんあり、今川軍は華やかな装いでのんびりと戦いを傍観しているように見えて、主だった軍がその別ルートを目指しはしないかと目を光らせていた。
そしてとうとう、その監視の網に獲物が引っ掛かったというわけだ。
勝千代はもう一度、茜色から濃い夜の色を帯び始めた上京の町を遠目に見下ろす。
むき出しの長槍の穂先が沈みゆく陽光を照り返し、ちかちかと光っている。
「……どれぐらい猶予がある?」
「朝倉軍がゆっくりと撤退してくれておりますので、深夜になるでしょう」
「朝倉が食ってくれると楽なんだが」
「大軍が通過し終えるまでは息を潜めて出て来ませんよ」
東山から攻め上がっているという事は、山科に抜ける道を横切る事になる。
かつて勝千代らがそうしたように、朝倉軍がそこを通過し終えるまでは、隠れて出て来ないだろう。
「……では、我らも急ぎ支度を」
「雨が降りそうですな」
勝千代はもう一度、暗さを増した空を見上げた。
沈みゆく太陽の周囲は明るいオレンジ色だが、天空に行くにしたがってぶ厚く黒い雲が立ち込めている。
いい予感はしなかった。




