25-3 叡山防衛3
「恐ろしい事を言う」
勝千代はぱっと傍らを振り仰ぎ、まじまじとこちらを見下ろしている宗滴殿にぶんぶんと首を振ってみせた。
「ちがいますよ! 強奪しろと言うているのではありません。正規の価格で買い上げればよろしいかと」
何か言いたげな沈黙がしばらく続いた。
勝千代は軽く咳払いをし、言葉を続ける。
「六角領内に流通している米に混ぜ物はないはずです」
もちろん、朝倉軍が必要とする量程度では、国が飢えるまではいかないだろう。だが、今すぐ必要な兵糧に困るぐらいには追い込みたい。
「近江商人には、帰還するための兵糧だと正直に伝えればよい。米を流通させることが彼らの仕事ですから」
商人たちは備蓄の米を銭に換え、その金で新規の米を別の場所から仕入れようとするだろう。
取引後、京で購入していた兵糧に小石が混じっていたのだと告げておけば、商人たちも用心するだろうから米の流通がかなり滞るはずだ。
朝倉軍が今回の行軍で費やした兵糧代についてはまあ、涙を飲んでもらうとして……
「噂をばらまいておくことです。伊勢殿に紹介された商人から兵糧を購い、危うく飢えそうになったと」
ちなみに、今川の備蓄だと称して「譲り渡した」兵糧の代金は、後日支払ってもらうことで合意している。
え? 福島家にじゃないよ。
名目上は朝比奈家の兵糧だからね。
さてこれで六角の足を引っ張る余地は出来た。
だが、淡海側から攻め込ませないためにはそれだけでは弱い。
もうひと工夫必要だ。
忍びがばらまいた噂が、うまく働いてくれるかどうかは運次第。
そんなあやふやなもので解決すると考えるのは危険なので、もっと確率を上げるべく丁寧な仕上げが必要だ。
「それにしても」
勝千代は水面を撥ねる飛沫に目を細めながら呟いた。
「六角家も京にこれだけの大軍を集めているということは、国元はほぼ空き家状態じゃないのでしょうか。遠江も今はほとんど出払っている状態で、どうなっているか心配なのです」
遠江が空き家状態で、国境が心配だというのは事実だ。だが留守番役に父がいるし、駿河には今川の兵がまだ相当数いる。
今川館も、遠江を失いたいとまでは考えていないはずだ。
だが六角家は違う。土岐や浅井から攻め込まれる危険は当然あるはずだ。国人衆のいざこざもあると聞く。
人口が多い国だとはいえ、一万の兵を徴用したのはかなりの負担のはずだ。それらを抑え込むための残留組が十分に残っているとは思えない。
ふっと大きな手が影を作った。
谷が身構えたのが視界の端に映ったが、勝千代は特に危機感を覚えたりはしなかった。
よく知らぬ男のごわごわとした手が頭を撫でる。
鍛え上げられた武人の手だ。
まるで父の手のようなそのごつさは、勝千代の小さな頭蓋骨など片手間に粉砕してしまいそうだった。
だが意外と上手に撫でる。
……うん、子煩悩なタイプとみた。
「小賢しい小僧だ」
ザワリと空気が揺れた。
特に顕著な動きをしているのは谷で、刀の柄に手を当て身構えている。
だが宗滴殿は何度も勝千代の頭部を撫でさすっており、口調と態度がまるで違う。
「回りくどい事はよい。兵糧の駄賃に何が欲しい」
観音寺城か? と囁かれ、それに対して目を剥いたのはむしろ宗滴殿の護衛たちだ。
観音寺城って、六角家の主城だよね?
いやいや、そんな御大層なものはいりません。
勝千代がブルンブルンと首を左右に振ると、薄く引き結ばれていた唇の口角がにゅっと左右に上がった。
「ここだけの話だ」
「……はい」
「わしは儲けのない戦はしとうないのだ」
勝利して領地なり城なり利権なりを得るという意味だろう。
そういう意味においては、今回の上洛は不発かつ負け戦だ。
「誰でもそうですよ」
「故に、足を引っ張る味方には相応の報いを受けさせたい」
「……はあ」
「今すぐ観音寺を落とすことはできるだろうが、南近江を維持することは難しい」
……できるんだ。
勝千代はぽかんと口を開きかけて、慌てて引き結んだ。
「六角軍を所領まで引かせたいのであろう」
まさにそれが目的なのだが、違わず言い当てた慧眼に感心してじっとその顔を見上げていると、切れあがった目がギラリと不穏にきらめいた。
「……よかろう、飼っておいた札をひとつ切ってやろう」
ぐっと近づいて来た顔は笑っているのに、背筋がぞっと凍り付きそうになった。
「六角の足元に火をつけてやる」
さも簡単な事であるかのように言って、宗滴殿は不敵に含み笑った。
な、何をするのかなー
若干冷や汗をかきながら、にやりと悪い表情で笑う坊主頭を見上げる。
最近この手の策謀家と接する機会が多い気がするぞ。
「北条方の、石が混じった兵糧はどうしている?」
「ふるいにかけて食べるのでは」
「交換しようではないか」
勝千代は小首を傾げた。
「今川の、我が軍へ譲り受ける兵糧と、北条の石が混じった兵糧とを交換する」
どういう意味だ? それだと朝倉軍は困るのではないか? いやそもそも、兵糧の礼に云々という話はどうなるのだ。
眉間に皺を寄せた勝千代の頭をもう一度、宗滴殿はするりと撫でた。
「六角の蔵には米が唸っているのだろう?」
「……まさかとは思いますが」
「小石混じりの米俵とこっそり入れ替えたとて、困りはせぬはずだ」
いや困るだろう。
勝千代は呆れ、リスクが高いと反対しようとして……ふと頭をよぎった誘惑に口を閉ざした。
南近江の商人の蔵を空にしたとて、六角家の備蓄米がなくなるわけではない。
多少は困るかもしれないが、備蓄があるうちはまだ平気な顔をしていられるはずだ。
だがこのまま出兵が長引き、追加の兵糧を出そうという時、肝心の備蓄が小石混じりの兵糧だったらどうなる? 慌てて商人から購おうにも、その商人の蔵も空だったら?
これ以上兵を出しておくことはできなくなるだろう。
しかも、しかもだ。
この手を使えば、今川から兵糧をわけてもらうのは大方北条ということになり、兵の数的にみて朝倉にまったく損はないとは言わないが、かなり出費は抑えられるはずだ。
……ぬ、抜け目のない男だ。




