24-7 叡山前7
宗滴殿の詰問に答えることはできなかった。
ざわめきがますます大きくなり、周囲の者たちも腰を浮かせ始めたからだ。
住田殿も宗滴殿も「何事」と言いたげな厳しい顔をして庭の方を見ている。
勝千代は、人々が左右に分かれ、その中を足早に近づいてくる男の姿を目にしてほっと安堵の息を吐いた。
いや、安心するのは早い。
弥三郎殿の腕に抱かれている布の包みはきっと皇子だ。
ご無事なのだろうか。
意識はおありになるのだろうか。
御簾の向こう側では権中納言様が立ち上がり、警護する朝比奈殿もまた片膝を立てた。
「道をあけよ」
不規則な波のように左右に割れていた武士たちが、勝千代の甲高い声にざっと膝を擦り、廊下の際まで下がった。
弥三郎殿は開いた空間を足早に、険しい表情で近づいてくる。
その装束が戦塵にまみれ、あちこち返り血で汚れているのに気づいたのは勝千代だけではないだろう。
伊勢本陣へ踏み込み、無傷でいられると考えたわけではない。
実際に突入させた数も、多すぎれば逆に敵兵を呼び寄せるだろうと考えた上で調整した。
その分他所に注意が向くようにしたし、腕利きの忍びを補佐として同行もさせた。
弥三郎殿は手厚すぎる援護だと笑っていたぐらいだが、現実は勝千代が想像していた以上に激戦だったらしい。
後詰に控えさせていた逢坂老が介入する事はなかったと聞いているが、大将クラスの弥三郎殿が返り血を浴びるほどだったというのは、よほどの接戦だったはずだ。
だが見た所大きな怪我はなく、本来の目的である皇子の身柄を保護することに成功したようだ。
しかしそんな安堵は、漂ってくる濃厚な血の匂いにかき消された。
「おお、皇子さま」
立ち上がった一条権中納言さまが震える声で呟き、御簾をかき分け歩み出てきた。
「皆下がれ。その場から動くことは許さぬ」
子供の声というのは、周波数の関係だろうか、騒めきの中でもよく響く。
勝千代の腹から出した鋭い声に、ざわめきがピタリと止まった。
「控えよ」
真っ先に低頭し、床板に額を押し付けたのは勝千代の側付きたちだった。
次いで、その他の今川家の者たちがそれにならう。
朝倉家の武将たちは、ためらいがちに浮かせていた腰を下ろし、静かに頭を下げた宗滴殿に倣って上座に向かって頭を低くした。
それでもなお顔を上げていたのは、住田殿ら細川京兆家の重臣ばかりで、彼らは不服そうというよりは懐疑心に満ちた表情で朝倉側を睨んでいる。
勝千代は仁王立ちになって、近づいてくる弥三郎殿を迎え入れた。
ああ……皇子を包むその着物は赤いのではない。鮮やかな萌黄色の小袖のほとんどが、真っ赤な鮮血に染まっているのだ。
一層濃くなる血生臭さは、今なお傷口から血が滴っているかのようだった。
「こちらへ」
勝千代は震えている権中納言様に腕を添え、御簾の内側へと導いた。
弥三郎殿もそれに続き、急ぎ用意された一枚畳の上にそっと腕に抱いていた包みを降ろす。
さっと距離を詰めてきたのは、あらかじめ呼び寄せておいた今川方と北条方の従軍医だ。
皇子が負傷していることはわかっていた。その容体について、あの年寄りの御殿医の言う事は要領を得ず、おそらく手に負えないものだったのだろう。
やんごとなき御方の脈を取らせて、後々咎められはしないかという不安はあったが、常日頃から怪我人を相手にしている医者のほうが腕はいいはずだ。
「……大方が乳母殿の血です」
弥三郎殿が、苦い口調でそう言った。
「皇子とともに喉をついて死のうとなさいまして」
なんでも、助けに現れた弥三郎殿を見て悲鳴を上げ、武家の手に落ちるぐらいならば死ぬと、錯乱状態で懐剣を振り回したのだそうだ。
乳母殿は皇子を刺したところで我に返り、悲鳴を上げて懐剣を引き抜いたが、とたんに勢いよく血が噴き出し皇子は失神。それを見て乳母殿は己が殺してしまったのだと血まみれの切っ先を胸に当て……
「死んではおられませぬ。女の力で胸元を突いても着衣が邪魔をして深くは刺さりませぬ」
急所は外したが、大量の血がスプラッシュして弥三郎殿らに降り注いだとの事だ。
「どちらも出血はとまっております。流した血は乳母殿が断然多いです。皇子のお怪我は肩口です」
淡々とした弥三郎殿の報告に、では皇子の傷はたいしたことはなさそうだなどと思ってはいけない。
この時代は、些細な切り傷からでさえ感染症にかかり、運が悪ければ命を取られてしまうのだ。
顔まで血まみれの弥三郎殿が勝千代の方を向き、両手を床について深々と頭を下げた。
「ご信頼にお応えできず、申し訳ございませぬ」
普段ののんびりとした口調は欠片も見当たらず、かなり己を責めているのが分かる。
直接あのアニメ声の乳母殿と対面したことがある勝千代にはわかる。かなり危うい精神状態で、こちらの話などろくに聞く耳をもたなかった。
男女関係なく、ああいう状態の人間に対処するのは難しい。錯乱されてしまえば、身分的なものもあって、手を出すのもためらうだろう。
勝千代は低く伏せられた肩にそっと手を置いた。
「そんな状況下で、よくぞお二方とも連れ帰ってくれました」
何しろ敵陣の真っただ中、伊勢殿がもっとも厳重に守っていた場所から、見事宝を取り返してきたのだから。
「あとは医者の仕事です。皇子の生きる力を信じましょう」
責められる者がいるとするなら、錯乱し皇子と心中しようとした乳母殿であり、この作戦を立てた勝千代だ。
そして誰よりも罪深いのは、今の状況を作り上げた伊勢殿だろう。
黒蛇と呼ばれる男の顔を思い浮かべ、奥歯をぐっと噛みしめた。




