24-5 叡山前5
ものすごく、めちゃくちゃものすごく腹が痛い。
白湯を……いや、弥太郎の薬湯が飲みたい。
勝千代は物理的に穴が開きそうなほどの凝視に晒されて、今すぐ厠へ駆け込みたい衝動に駆られていた。
幼気なお子様を睨むなよ。お前らの息子……いや孫であってもおかしくない年頃だろうに。
こっそり腹に手を当てて、掌の温度で温める。
温石はないのか温石は。
こいつらはジャガイモにカボチャだ。畑のお野菜どもだ。
野菜の分際で睨んでくる輩を気にすることはない。野菜は野菜らしく、上手く調理されるのを待てばよいのだ。
ゆっくりと息を吸って吐く。
教育委員会のお偉いさん、あるいはPTAのやかまし所だと思えばいい。
気負うことなく、理路整然と話せばよいだけだ。
睨んでくるのは威嚇だ。己らの不利を察しているから、牙をむいているのだ。
交渉役として出てきたのがお子様だから、馬鹿にされたと感じて怒ってもいるのだろう。
……誰か代わりに交渉してくれないかな。
御簾の内で控えている朝比奈殿あるいは、隣室で耳を大きくしているであろう井伊殿あたりが適任なのだが、二人ともに辞退されてしまった。
遠慮すると言われたが、そういうタイプではないと思うのだが。
対面用に用意されたのは、叡山のふもとにある小さな寺だった。
権中納言様が足を運ばれるにはかなり鄙びた古い作りの寺だが、参道脇のこの建物を選んだのはご本人だ。
まあ確かに、武装した血生臭い集団を帝に近づけたくないというのは理解できる。
勝千代は、凝視というには穏便さに欠ける視線に辟易しながらも、表面上はにこやかな、ご機嫌な子供の表情を崩さずにいた。
背後の廊下から、誰かが近づいてくる音が聞こえた。
かなりゆったりとした足音だ。若干すり足の余裕を持った歩き方から、待っていた御方だとわかる。
「いらしたようですね」
勝千代がそう言うと、白髪交じりのものすごく恐ろしい面相の武将が低く喉を鳴らした。
さながら、血に飢えた獣の唸り声のようだった。
な、泣くぞ。いいのか? 泣いちゃうぞ。
勝千代は内心そんな事を思いながらも、強いて表情は崩さず笑顔を保つ。
「それでは始めましょうか」
御簾が掛けられた上座に人影が落ち、付き従っていた複数名ともども腰を下ろしたのを確認してから、勝千代は丁寧にそちらに頭を下げた。
「よろしいですか?」
「……かまわぬ。進めよ」
御簾越しに聞こえた権中納言様の声は、ぎすぎすとした武士たちの雰囲気を浴びてもゆったりと穏やかで、もちろん勝千代同様強いてそういう態度を取っているのだろうが、はんなりとした京訛りが武家とは一線を画す別格感を醸し出していた。
「帝のおわす叡山襲撃の件について」
勝千代の、意図して作った子供子供した声色に、苛立っていた武家たちがぎょっとしたように息を飲んだ。
「待たれよ。そのことについて我らは感知しておらぬ。まことにそのような事があったのか? 襲い掛かったのはむしろ今川軍のほうではないのか」
「とんでもない」
もじゃ髭にもじゃ髪に屈強な体躯。
どこか父を彷彿とさせる年配の武将に、勝千代はにっこりと笑顔を返した。
「子供連れでそのような事をするわけがないではありませぬか。我らは権中納言様を叡山までお送りしていただけでございます」
今この場にいるのは、勝千代ら以外には二勢力。
片方が、弥九郎殿の伯父だという年配の武将を筆頭にした細川京兆軍。
もう片方は、朝倉軍のなんと総大将、宗滴殿だった。
意味不明、わけわからん。どうして総大将がのこのこと自らお出ましなのだ。何かあってからでは遅いんだぞ。
総大将が討たれれば朝倉軍は混乱し、最悪壊滅するかもしれない。
寡兵を率いて直々に会談に応じると聞いた時には呆れ、思わずそうぼやいてしまったのだが、三浦ら側付きたちは苦笑するだけだった。
……その目は何だよ。勝千代も似たようなものだと言いたいのか? いや数千の軍勢を率いる総大将とは全然違うだろう。
だが、そうせざるを得ないほど、朝倉軍の兵糧状況が深刻なのだと思う。
噂によると軍神とまで呼ばれているらしいその人物は、四十代半ばから五十代ほど。ずっと黙って腕組みをしていて、つるつるの頭部に頭巾をかぶり、僧形なのか武士なのかよくわからない恰好の、仁王像のような強面オヤジだ。
「取り急ぎ用件だけ申し上げますと、我らに抗議される謂れはなく、問答無用に「始末せよ」と言うてきた細川京兆家のほうこそどういうお考えなのかお聞かせ願いたい」
「……ここに朝倉殿がいる理由は」
白髪交じりの細川家武将は、住田伊介と名乗った。弥九郎殿の母方の伯父だろうか。
この男が先程から殺気立っているのは、腕が届くほどの距離に今上京で戦っているはずの敵軍総大将がいるからだ。
そんなに怒るなよ。勝千代にとっても意外な展開なのだ。
「話を逸らさないでくださいね。何故叡山に入ろうとする権中納言様の行く手を遮るような真似を?」
勝千代がこてり、と首を傾げながらそう問うと、住田殿は低く唸った。
先程からずっとこの調子で、いきり立っているのはわかるが、いちいち唸るのはやめて欲しい。怖いから。
「我らには我らの事情がある。先にそちらの話を済ませてくれ」
朝倉殿は、見た目仁王像のような恐ろしく強面な表情のまま、意外なほど穏やかな口調で言った。
ずいぶんと理性的な喋り方をするが、その腕は身体の前で組まれたままで、とても貴人を前にした態度ではないし、何よりその表情が憤怒像のようで怖い。
そう、狭い一室に閉じ込めるにはいかにも無理がある組み合わせなのだ。
双方ともに筋骨隆々タイプの武士で、小柄な勝千代と向き合って座ればなおのことその屈強さが際立っている。
近代以前の日本人の体格は華奢で小柄だと聞いていたし、おおむねその通りの者が多いが、例外もまた多数存在する。
勝千代はやはり父を連想しながら二人を見上げた。
ああ、はやく遠江に帰りたい。父の無事な顔を見たい。
遠江勢が出払ってしまって、困っているに違いないのだ。
「単刀直入に申し上げますと、叡山周辺から兵を引いていただきたい」
さっさと引き上げてくれと、始末に負えない大人の喧嘩にうんざりしながらそう言うと、ふたりの強面オヤジに付き従っていた者たちが、ざわり、とその場の空気を揺らした。
「やんごとなき方々に血生臭いものをお見せしたくはありませぬし、武家の事情でお煩わせするのも如何なものかと」
「そ、そちらの方こそ、このような大軍を勝手に配備して……」
「勝手に?」
勝千代は目を大きく見開いて、心外だと住田殿の顔を見返した。
「我らは今川家嫡男元服の報告とお礼をするために上洛いたしました。本来であれば公方様に直接お会いする予定でしたが、このような御不幸なことになり、祝い事などと言っていられない状況ですので、早々に帰国するつもりでいたのです」
最後に一条権中納言様を叡山にお連れして引き上げるつもりだったとため息をつくと、住田殿は真っ赤な顔をして、またも獣のような唸り声をあげた。




