24-4 叡山前4
ここで血を流す選択をしたことに理由はある。
穏便に話し合いで済むことではないとわかっていたというのが最も大きな一点。
さらに挙げるとするなら、どちらの陣営にも属さないという立場を明確にするためだ。
もちろんここで、伊勢殿が帝の身柄を要求してきたとしても従うつもりはない。
六千程度の人数なら一年以上耐えうる兵糧が蓄えられている、というのも大きな理由のひとつだ。この場所へなら、ひそかに例の兵糧を運び入れる事が可能なのだ。
さらに言えば、ため込んだ例の米蔵に手を出せないのなら、伊勢陣営や阿波細川軍の兵糧がそう長く持たず尽きるだろうと予想できたというのもある。
兵力差を見ても、兵糧の点からいっても、伊勢殿陣営の負けは濃厚だ。
もしかすると兵糧の補充は可能かもしれないが、今すぐというわけにはいかないので、やはり長くは兵力を維持していけないだろう。
ともあれ細川京兆家がおそらくは勝つだろうと見て取れ、だからこそ釘を刺しておきたかった。
叡山を囲い、帝や東宮をお守りするという態で、意のままに動かそうという野心は持たせるべきではない。
伊勢殿が皇子を人質に将軍位を手に入れようとしているのと同じく、細川管領も誰かはわからないが足利の血筋の者を次期将軍に推すだろう。
そのうちの誰が次期将軍の宣下を受けるにせよ、それは武家の中で話が決まってから帝に願い出るべきものだ。
例えば今勝千代が吉祥殿を連れてきて、将軍宣下を授けてもらえたとして、それで国がまとまると思うか?
帝や皇子の御身を盾に将軍の座を得たとしても、周囲の納得がない限り、この諍いが収まることはないのだ。
今、細川京兆家は窮地にある。
戦況的な問題ではなく、帝に弓引いた逆賊としてだ。
帝の心情を大きく崩せば、管領殿が推す人物は将軍位につけなくなる。
予想では、慌てて言い訳に来るだろう。
あるいはもう一度ぐらい、叡山を守る今川軍を排除できないか試みるかもしれないが、謗りを受けず攻め込む口実がないので難しいはずだ。
今はまだ三百だが、半日もせずに今川軍本隊が合流して五千になる。
左馬之助殿がうまく動き、朝倉を味方に引き入れることができれば、一気に伊勢派を呑めるし、両細川家と張り合う事も可能になる。
勝千代は子供用の床几に座り、地面に押さえつけられている若者を眺めた。
戦国の世になり、戦が常態化するに従って、兜で蒸れるという理由で月代が武士の代名詞のようになっていくのだが、きれいに月代をキープするには、毎日の髭剃りのようにじょりじょり刃物を当てる必要がある。
剃刀負けしそうだし、皮膚が傷んで万が一毛根が死に絶えたらどうするのだと常々気になっていた。
勝千代は、兜を外された若者の頭頂部を正視することが出来ず、ふさふさと豊かな髪が地面に着いているのを痛ましく思った。
やっぱりそうなるよな。
ツルツルの頭頂部はぴかりんと光り輝き、春の強めの日差しをはじいている。
若いのに気の毒に。
こめかみから上の毛根は明らかに死に絶え、磨き上げられたように眩いばかりだ。
勝千代は眉間を抑え、憐憫を押し殺した。
若者は細川弥九郎殿という名だそうだ。細川典厩家という京兆家の分家嫡男だとか。
勝千代よりもはるかに身分が高く、育ちも良く、いいものを食べて育ったのだろう、体格も良い。
ただひとつ難点は……
「離せ!」
押さえつける腕を振り払おうと暴れるさまは見苦しく、投降したその側付きたちの表情も苦い。
毛根と一緒に脳細胞も儚くなってしまったのだろう。視力も悪いのかもしれない。味方が全滅し、生き残りは数人という有様が全く見えていないようだ。
「わしを誰だと思うておる!」
「帝に弓引く不忠ものですね」
「……なんじゃと」
顔を振り上げた瞬間、木漏れ日が弥九郎殿の頭頂部を直射した。
勝千代は掌で目を覆い、深呼吸する。
「我らは権中納言さまの御命令により、先ぶれとして叡山に参りました。東宮様の第一皇子が怪我をなさった状態で伊勢陣営に捕らわれておいでです。皇子の許嫁の父君として、なんとしてもお助けすると奏上するおつもりだそうです」
勝千代は指の隙間から光り輝く弥九郎殿を覗き見て、ため息をついた。
やばい。眩しすぎる。
「何故に我らを始末しようと? ここにいる理由をはっきりと申し上げたではありませぬか」
弥九郎殿はおそらく、叡山に余人を近づけるなと命じられていたのだ。
命じたのは管領殿だろう。その頭にあるのは、義宗殿および阿波の御方の将軍宣下を阻止することだ。
間違った方針ではない。
今川軍が権中納言さまの護衛のためだけに動くとは想していなかったはずだ。
だが、指示されていないからといって、命令を遵守し攻撃を仕掛けてしまったのは、あきらかに弥九郎殿の資質の問題だ。
毛根同様、考えて行動する能力に欠けているのだろう。
おかげで彼は手持ちの兵を失った。
それでもなお強気な態度をみるに、五百程度、彼にとって大した損失ではないのかもしれないが。
弥九郎殿は先程からずっと勝千代への悪口雑言を繰り返し、押さえつけられてもなおこちらへ向かって来ようとしていて、「ついうっかり」谷らの刀が抜かれてしまいそうだった。
この状況で、子供ひとり罵倒してどうなるのと言うのだ。
彼の兵士五百はすでにない。ほとんど無傷な敵を相手に、起死回生を狙うには遅すぎる。
「許可頂けるのなら始末いたしますが」
ふてぶてしく喚いていた弥九郎殿が、朝比奈殿の言葉にギョッとしてもがくのをやめた。
「あとくされもなくよろしいかと存じます」
そう言葉を続けたのは三浦だ。
ちらりと傍らに立つ己の側付きを見上げると、普段は好青年よろしくにこやかな三浦が、般若のような面になっていた。
虫の音も、鳥の声もぴたりと止んでいる。
ただ風が木々を揺らす音と、生き延びた幾人かの苦痛の声が怨嗟のように響いているだけだ。
這いつくばった敵を見下ろす男たちの表情は、尋常ではなく険しかった。
何を怒っているのかと尋ねはしない。
ただの悪態なんだから……と宥めるのは、空気を読んで我慢した。




