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春雷記  作者:
京都編

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23-4 下京外 今川本陣5

 正直、あまり大きな声では言えない事だと思うのだ。

 要するに強奪、かっぱらい。よそ様がため込んだ米俵を、こっそり横から奪うのだから。

 だが井伊殿は大喜び、清廉潔白が歩いているように見える朝比奈殿とて、顔を顰めるどころか乗り気のようだ。

 更に前のめりなのが弥三郎殿だった。眠そうだった目がキラキラ輝き、見違えるほど生き生きしている。

「いやあ、食い物に悪さしちゃあいけませんよ」

 満面の笑顔でそう言って、わきわきと両手の指を動かしている。

 ……四年前に兵糧が届かず食うに困った三河でのことが、いまだに尾を引いているようだ。


 作戦自体は単純なものだ。

 両軍の注意をよそに逸らせているうちに、こっそり米俵だけ頂いていく。

 敵を倒す必要はなく、うまく行けば気づかれもしないだろう。

 そんなに簡単にいくのかって?

 敵を錯乱させることに長けた奴が、本腰をいれて工作するのだ。少なくとも一定時間、「それどころではない」状況になるだろう。

 同時に、とある細工もさせることにした。

 上京の北東を流れる鴨川の堰を切らせるのだ。

 堰を切るといっても本流のものではなく、生活用水用の貯水池の目立たない一角なので、想定しているのは上京の土塁の内側が軽く水浸しになる程度の被害だ。

 だが悪くないと思うのだ。

 町が壊滅状態なので、今さら水が来ようが火が来ようが大した違いはない。

 だが、両軍は慌てて対処に追われ、敵味方関係なく混乱するだろう。

 問題となるのは衛生面。糞尿の処理が肥溜めのこの時代、この手の浸水は厄介なのだ。

 馬や兵が走り回る戦場で、跳ね返る水を浴びるだけで病気を拾いかねないなど、おちおち槍を振るう事もできまい。

 用水路が溢れているだけなので、問題の場所を突き止めれば水もすぐに引くだろうが、この時期は鴨川の水量が多く、調整するために貯水池にも結構な量の水が引き込まれていて、そう簡単にぶ厚い木の板を差し込みなおすことはできないはずだ。


 それらの計画を一通り聞いた井伊殿は大声で笑いだした。

「ずいぶんな悪戯ですな」

 人聞きが悪い。ちょっとした……嫌がらせだ。

 べちゃべちゃな上京で、両軍ともに糞尿の匂いに辟易し、戦どころではなくなるだろう。

 そこで風魔小太郎が明後日の方向に気を逸らせ……何をするのかは知らないが、きっと今川軍でも北条軍でもない別のところに目が向くようにしてくれるだろう。


 実は、兵糧をため込んでいる地下通路には出入り口が二か所ある。

 片方は御所の北の端、もう片方は上京北にある馬場につながっていた。

 もともとは、やんごとない方々が御所から脱出せざるを得ない場合の隠し通路だったそうだが、応仁の乱以来使われることなく、いささか危ない所も出てきたので補修されることになっていた。その任に当たっていたのが伊勢殿だ。

 抜け道なので、内密な仕事であり、広く世間にその話が伝わることはなかった。

 伊勢殿はそれをうまく利用したのだ。

 工事を装えば、人足どもが出入りしても誰も疑問を持たなかったのだろう。

 ちなみに馬場の標高が高いので、兵糧を秘蔵している場所へ上京から汚水が流れ込んでくることはないそうだ。

 上京を奪還し、御所側から兵糧を回収しようとしている伊勢殿には悪いが、先に馬場の方からごっそりいかせてもらう。


 今川本陣で話し合われているのは、そんな「ちょっとした嫌がらせ」の細かな打ち合わせだった。

 とはいえ堰の板を外すのは忍びに任せるし、戦が始まっている現状それは難しい事ではないだろう。

 難点は、大量の兵糧をどうやって、何処に運ぶかだ。

 秘蔵している米俵はおおよそ百万個近くもあり、米俵百万個といえば、二十万石ほどだそうで……勝千代の感覚だと天文学的量だ。

 伊勢殿はいったいどうやってそれだけの兵糧をかき集めたのだろう。

 隠し場所を見つけ出した風魔忍びも、暗闇の中でよくぞ米俵の個数を把握できたものだ。

 今川の五千、北条の千の兵が総出で頑張ったとしても、こっそりとすべて運び出すのは不可能だ。

 かといって、残りを放置するのも惜しいと弥三郎殿。敵の手に渡るのなら汚水に放り込むべきだという井伊殿と意見が割れていた。


「いらっしゃいました」

 陣幕の向こうから三浦が大股に近づいてきて、勝千代の側に片膝をついてから言った。

「一条権中納言様です」

 話し合っていた大人たちが一斉に床几から立ち上がる。

 勝千代もまた最上座の子供用の床几から腰を上げ、せかせかと急ぎ足で近づいて来た権中納言様に丁寧に礼を取った。

「怪我はしておらぬか」

 真っ先にそう問われ、土居侍従の事だと思い顔を上げると、思いのほか近くにいた権中納言様の手が勝千代の肩に置かれた。

「土居の事は聞いた。そなたも危ういところやったのやないか」

 どうやら勝千代の心配をしてくれていたらしい。

「いえ、見ての通り怪我などしておりませぬ」

 ありがたい事だと笑みを返すと、青ざめていたその顔がほっとしたように緩んだ。

 勝千代は愛姫とそれほど年回りも変わらぬ子供なのだ。子を持つ父として、気にかけてくださったのだろう。

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― 新着の感想 ―
[良い点] そんな状況ではないのに、大の大人達が座を囲んで“ちょっとした”悪戯についてわいわいやっている絵面を想像するとにんまりしてしまいます。 雨月様もおわしまして、これは続きが待ちきれない…! […
[一言] 一条家の皆様は癒し
[気になる点] 一俵が約60Kgとしてそれが100万個 数が大き過ぎて色々と想像が付かない
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