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春雷記  作者:
京都編

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142/397

23-1 下京外 宿場町1

「熱が上がってまいりました」

 たらいで手を洗った弥太郎が、青白い顔をしている土井侍従を見下ろしながら言った。

 一応の手当てが済むまでは気を張っていたのだが、夕刻が近づくにつれて体温が上昇し、どうやらよからぬ感染症にかかってしまったらしい。

 こうなってしまったら、抗生物質のないこの時代、回復はなかなか難しいものになる。

 幸いにも意識を失くすほど悪化してはいないので、今のうちに滋養のあるものをできるだけ食べ、しばらくは療養せざるを得ない。

「寝ている場合ではありませぬ」

 京都訛りとは少し違う、どこか西の方のイントネーションで土井侍従が言う。

 口調はしっかりしているが、普段よりも弱々しい声だ。

「今は休んでください。あの御方の消息を確かめ、次に動く時には失態のないよう万全を期します」

 土井侍従はそう言った勝千代の顔をじっと見つめ、悔し気に唇を引き締めた。

 彼が寝かされているのは、下京から川を隔てた東側にある真言宗の寺だ。今川軍が布陣している場所とは目と鼻の先で、皇子の侍従や老医師たちもここにいる。

 寺を含む宿場町を丸ごと借り上げ、そこには朝比奈殿や井伊殿、ついでに勝千代の部屋まできちんと確保されていた。


 行軍中の軍隊とて宿泊場所は必要だ。雨が降らず気候が良ければ野宿もあるだろうが、ずっとそれはつらい。

 五千の兵がいるということは、五千人分の雨風をしのげる場所の確保も必要になる。つまり普通の旅人と同じで、長距離を移動するなら人通りが多い街道沿いが都合よく、多くは宿場町あるいは寺院、友好国であればその城を間借りすることもあるそうだ。

 難所を突っ切った最短距離を考えてしまうのは、全国津々浦々に高速道路を張り巡らされた日本を知っているからで、車で数時間の距離が軍だと十日はかかる。

 当然、武士の仕事は戦だけではなく、十全にその軍勢を働かせるために細かな気配りが必要になるのだ。

 わかりやすく言えば、十日間野宿で雨に濡れた兵と、雑魚寝だろうが屋根のある場所で休めた兵とでは、体力も士気も段違いだということだ。

 そして朝比奈殿が引き連れた今川の軍勢は、祝賀のための行軍だということもあり、身なりも士気も高いレベルに保たれていた。

 五千人もが宿を取るのにいくらかかるのか考えると眩暈がしそうだが、今川館も、嫡男の元服の祝賀行軍に身銭を切るのは惜しまなかったらしい。


 土居侍従の寝かされていた部屋を出て、ものすごく密な頻度で警邏している兵らの視線をやけにマジマジと浴びながら、勝千代は裏手の井戸脇から境内を出た。

 福島家一行に用意されたのは寺の並びの建物で、宿ではなく大身の商家の別邸だった。

 下手な武士よりも金満な商家の定番で、内装はかなり豪勢だ。長居するつもりはないので、土居侍従殿と同じ寺でもよかったのだが。

 入り口の土間から入り、広い玄関口の上がり框に腰を下ろすと、濯ぎ用の湯をたらいに入れた弥太郎がすたすたと近づいて来た。

「……侍従殿は」

 草履を脱いだ勝千代の素足を片方ずつ丁寧に清めながら、弥太郎はしばらく返答に迷った風に黙った。

「この先幾日か高熱を覚悟せねばなりませぬ。それを乗り越える体力次第かと」

 弥太郎は安易な言葉を選ばず、はっきりと所見を述べた。

 勝千代は「そうか」とつぶやき、遠い未来では小さな薬、あるいは点滴の一本で救える命が、この時代では軽く吹き飛ぶのだと改めて噛みしめた。

 侍従殿もそうだが、皇子の容体も気掛かりだ。どうか無事に。ただそれだけを願い瞼を伏せる。

「段蔵が戻り次第、急ぎ対応を決める。すぐに動けるよう心づもりを」

「はい」

 手ぬぐいで足を拭いてもらい、邸宅に入った。

 まっすぐに伸びた廊下はひんやりとしていて、足の裏から伝わってくる板間の冷たさにぶるりと身震いした。



 段蔵が戻って来たのは夕刻で、誰の目にも水と油な連れを伴っていた。

 変わらぬ端正な姿勢で頭を下げる段蔵に対し、見間違えようもない巨漢は無造作に胡坐をかいている。

 風魔小太郎だ。

「何故ここに?」

「偶然行き会いました」

 勝千代の問いかけに答えたのは段蔵。

 まるで街中で知己に出会ったかのような言い方だが、もしかすると忍び込んだ先でかち合ったのかもしれない。

 勝千代はまじまじと、現代の感覚でも巨躯と言ってもいい男を見つめた。

「……偶然?」

 返答は、獣のような歯並びを剥きだした野性的な笑みだった。ぶ厚い唇がめくりあがり、子供など頭からむしゃむしゃ食べてしまいそうな大きな口から奇妙な軋むような笑い声が漏れる。

「我らは田所殿及び例の方々をお探ししていたのですが、この者は」

「こちらもとあるものを探しておりまして」

 途中で言葉を遮られ、段蔵の表情が渋くなる。この男のこんな嫌そうな顔は初めて見るかもしれない。

 巨漢の忍びは苛立っている段蔵にこれ見よがしな表情で手を振って、「邪魔をするつもりも横槍を入れるつもりもなかった」と続ける。

「こちらの探しものに手を貸してくれるのなら、田所とかいう奴を探すのを手伝うと言うたのですが」

 いちいち意味深な言い方をする奴だ。

 勝千代も段蔵と似たり寄ったりの表情でいたが、何も考えず追い払える相手ではない。

 同盟軍とはいえ今川が陣を張っている真っただ中に来たという事は、何らかの情報をつかんでいる可能性が高いからだ。

「……話を聞くだけなら聞いてやろう」

 用心しながらそう言うと、「うははは」と意味不明の哄笑が返ってきた。

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福島勝千代一代記
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― 新着の感想 ―
[良い点] ウオオオ\( 'ω')/アアアッッッッ!!!胸熱展開!! お勝ちゃん視点の風魔小太郎描写が妖怪そのもので笑ってしまった…怖いのかな?怖いか…(14-5話思い出しながら)
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