22-5 下京外 今川本陣2
陣幕の中に天井はないので、眩いばかりの春の日差しは隠すことなくその現場を照らし出していた。
振り上げられているのは長槍。
え? 槍って鈍器? という利用方法で振りかぶられ、それを受け止めたのは井伊殿の側付きだ。
何かがぶつかるような派手な音は、槍の柄の方が床几を巻き込んで倒した音だった。
井伊殿の側付きは小手の金物部分で横にいなすように受け止め、長槍は持ち主の手を離れ陣幕を切り裂きながら土に突き刺さった。危ないな。
「ええい、そこに直れ!」
そう言って、倒れた床几を握り振りかぶったのは、縦にも横にも大きな男だった。
特にふくよかなのが腹回りで、それゆえに長槍が扱い難かったのだ。
いや、危ないって。
床几を武器にしようという、悪役レスラーのような真似をしている男の事を、残念ながら勝千代は見知っていた。
今川館でよく絡んできていた、御台様派閥の文官のお偉いさんだ。
事あるごとに福島家に仕事を押し付けてきて、しかもそれは厄介なものばかりで、珍しくあの志郎衛門叔父が酔って悪口雑言を漏らすぐらいには険悪な関係だった。
とても京までの長い旅路を好むようには見えないが、武士が手柄を立てるのと似たようなことを文官として成し遂げたかったのかもしれない。
名目上、龍王丸君(新しい名前はまだ聞いていない)の元服のお礼の総代は朝比奈殿だが、文官としてその補佐をするために同行しているのだろう。
すたすたと陣幕に入ってきた朝比奈殿の存在に、こちらに背中を向けていた男はすぐに気づかなかった。
床几を振り回し耳障りな怒声でがなり立てている最中、その場にいた者たちがすっと居住まいを正したことに、御高説がまかり通っているとでも思ったようだ。鼻息荒く更に何か怒鳴ろうとして、大きく息を吸い込んだところで、「御前だ。控えよ」と冷ややかな言葉に遮られた。
床几を大きく振りかぶったままという、どこからどう見ても間の悪いタイミングで、男の目が勝千代を捕えた。
「近藤殿」
勝千代は強いて無邪気な笑みを顔面に浮かべ、にこやかに声を掛けた。
「お取込み中ですか」
井伊殿の言う「偉そうな文官」が一門衆ではなかったことに安堵した。ただ単に虎の威を借る狐だから、言う程厄介な相手ではない。
「仲裁役が必要でしたらお申し付けください。後日御屋形様にお伺いを立て、厳正な処分をお願いしましょう」
近藤が御台様の威を借りると言うのなら、こちらも同じことをするだけだ。
御屋形様の名前を出すと、こういう連中がとたんに口をつぐむのは毎度のことで、「龍王丸君の時代になれば勝千代の首など飛ばしてやる」とでも思っているに違いない。
「流血沙汰になれば両成敗でしょう。話し合いで解決なさっては?」
使えもしない長槍で殴り掛かるんじゃなく。
勝千代の目が、切り裂かれた朝比奈殿の家紋の方に向き、意図して「ふっ」と煽るように嗤ってやると、近藤の顔がみるみる赤黒く染まっていった。
振り上げられた床几がブン!と空を切ってこちらに飛んで来た。
さっとそれを遮ったのは、朝比奈殿と並んでぴたりと勝千代に付いてきていた谷だ。
「……申し訳ない。手が滑り申した」
床几は軽い木でできているので、投げつけられても大怪我を負うようなものではないが、子供の場合はその限りではない。明らかに手が滑ったわけではなく投げつけた現場を見ていた大人たちの気配が一気に尖った。
床几が陣幕にぶつかり、たいした音もたてずに地面に畳んだ状態で落ちた後、ものすごく刺々しい沈黙がその場を支配した。
「無礼者」
低く、割れたような声でそう言ったのは朝比奈殿だ。
普段の、温度を感じさせない平淡な口調ではなく、地を這うような不穏な声色だった。
その手が腰の刀に触れていることに目ざとく気づいた近藤が、赤黒かった顔面からさっと血の気を引かせる。
「て、手が滑っただけではござらぬか!」
「そうですよ。手が滑っただけです」
総大将自ら今川館の高官に切り付ける気じゃないだろうな。
勝千代は不本意ながら近藤の肩を持つ形で朝比奈殿を宥めた。
「どこから何が飛んでくるかわからぬご時世ですから」
誓って言うが、脅したわけではない。
我ながら意味不明の取りなしだなと思ったぐらいだ。
だがそれを聞いた近藤の顔色がさらにいっそう青白くなり、井伊殿は面白そうに、朝比奈殿は何故か納得したように頷く。
そして谷よ、お前は何故犬歯をむき出しにして笑っているんだ。
「込み入ったお話でしたら、席を外しましょう」
「そ、そうですな! 関係のない子供が聞いて良い話ではござらぬ」
それでは……と、この気づまりな空間から一時的にせよフェードアウトしようとしたのだが、「その必要はございません」と井伊殿が遮った。
「総大将のご判断で、少数精鋭で下京へ向かうという決断をなされたのに、どうしても近藤殿もいかねばならぬと申されて、護衛の兵を百つけろと」
「井伊殿!」
「出来ぬと申したら、随分と興奮なされて」
勝千代は、斜め前に立っている朝比奈殿を見上げた。
きっちりと乱れなく鎧兜を着込み、きっと重いだろうに顔色一つ変えず直立不動のままでいる今川軍の総大将は、青い飾り紐のついた太刀の柄に利き手を乗せたまま、動揺する丸い男を微動だにせず見据えていた。




