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春雷記  作者:
京都編

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22-3 下京 和光寺外3

「お、お待ちを!」

 庶子兄の大声の制止に、朝比奈殿は馬の脚を止めた。

 だがそうしたのは朝比奈殿だけで、周囲のその他の騎馬たちは歩を進め続け、勝千代らとそれを囲む兵らの間に悠然と分け入ってきた。

 そのうちの一人と目が合って、兜の頬当て越しに笑みを返される。

 黒い頬当ては鬼の口を模したような意匠で、赤黒い組みひもの鎧兜と相まって随分恐ろし気ないでたちの男だ。

「やあ、勝千代殿」

 だがしかし、聞こえてきた声はのんびりと間延びした、ミスマッチに穏やかなものだった。

「……弥三郎殿?」

「そうですよ」

 朝比奈殿の年の近い叔父だという弥三郎殿とも、曳馬城以来の再会だ。

 

 馬上から手を差し出され、とっさに握り返そうとして、南に胴体ごと身を引かされる。

 そうか、絶対に味方だとは言い切れないのか。

 南の態度は無理もない事だ。勝千代は今川家にとって微妙かつ不都合な存在になりつつある。

 南をはじめ、側付きたちの警戒する様子を目にしても、弥三郎殿は不快を面にはしなかった。

 むしろ配慮できずに申し訳ないと言いたげに肩を落とし、出していた手を引っ込める。

「本陣は川を挟み山科方面に敷いています。幕府に挨拶をしてから、今夜にも伏見に移動させる予定でいます」

 特に早口でも、切羽詰まった口調でもない。

 日常会話的な音量での極めて普通な声色は、緊迫した状況下ではむしろ異質だった。

 続く数秒の沈黙に、弥三郎殿は「あ、なにか間違った?」とでも言いたげに小首を傾げる。


「ここは我らが預かる。続きの話は伊勢殿の御前で聞こう」

 朝比奈殿は平淡で固い口調でそう言って、言葉に迷い口ごもっている庶子兄から視線を逸らせた。

「お、お待ちください!」

「納得のいく言い訳を考えておくのだな」

 なおも引き留めようとした庶子兄にはもはや目もくれず、朝比奈殿は優雅に手綱を引いてカッポカッポと近づいて来た。

 その容貌がはっきりとわかるようになり、真っ先に感じたのは、「痩せたな」ということだ。

 頬の肉が落ち、以前より鋭く険しい容貌になっている。

 四年前のあの一件以降、直接会う事はなく、書簡などのやり取りがあったわけでもないが、国境線での戦いで連戦連勝、鬼福島に並ぶ勇将と呼ばれるようになっているのは聞いていた。

 派手な戦果を漏れ聞くたびに、奥方の件からはもう浮上したのだろうと安易に想像していた。

 だがこれは……大丈夫だと言えるのか?

 勝千代は、眉間にしわを寄せたくなるのを我慢しながら、近づいて来た朝比奈殿が騎馬からひらりと降り立つのをじっと見守った。

 その鋭すぎる視線に刺し貫かれるような気すらして、「駄目だろうコレ」と弥三郎殿に目でヘルプの合図をしたが、反対側に首を傾けられただけだ。


 こんな時代だから、カツカツと軍靴が鳴っているわけではない。踵の硬い靴などないし、地面も土だからだ。

 だがしかし、派手やかな重装備の朝比奈殿が歩を進めるたびに、鎧の結合部分が触れ合っているのかそれに近い音がした。

 警戒もあらわに身構えたのは谷ら護衛たちだ。

 側付きの残りは勝千代を守るように寄ってくる。

 だが朝比奈軍の騎兵は、今にも攻撃を仕掛けてきそうな福島側ではなく、周囲の歩兵たちの方に騎首を向けて、そちらを警戒しているようだ。

 ただ一人下馬した朝比奈殿は、轡を押さえる者もいない軍馬をその場に放置して、勝千代から二メートルほど離れた距離で足を止めた。


「ご尊顔を拝し、恐悦至極に存じます」

 え? なに?

 滔々と聞こえたその口上にぎょっとしたのは、勝千代だけではないだろう。

「久方ぶりにございます。ご健勝そうで何より」

 朝比奈殿はそう言葉を続け、やおら腰の刀に手を当てた。

 勝千代の護衛たちが動かなかったのは、それが刀を差した左手で、鞘ごと腰から抜いただけだったからだ。

 朝比奈殿は見惚れるほど端正な所作で片膝をつき、鞘ごと抜いた刀を地面に直接置いた。

「……朝比奈殿」

 ちょっと待って。待って。

 勝千代は、兜の後方から零れ落ちている超ストレートな長髪が、埃っぽい土の上にとぐろを巻くように落ちるのを見て両手を前に出した。

 駄目、それは駄目。

「旧交を温めるのは後にしましょう」

 若干早口になってしまったのは、ためらいもなく美しい髪を地面に着けた朝比奈殿の、大仰すぎる態度を止めさせたかったからだ。

 朝比奈殿は更に一度頭を低く下げてから顔をこちらに向けた。

「遅参いたしましたでしょうか」

 真顔でそう問われ、返答せず唇を引き締める。

 落ち合う約束の刻限には間があるが、それより早く事態が動いてしまったのだ。

「……あの御方が伊勢殿の手に落ちたかもしれません」

 勝千代は、近くにいる者にしか聞こえない程度の小声でそう言って、いまだ腰を抜かしたままの皇子の侍従たちに目を向けた。

 断言しないのは、まだ田所がどうにかした可能性が残っているからだ。

 朝比奈殿の無表情な顔に若干の皺が寄る。

「如何なさいますか」

「この方々を保護したいのですが」

 放置しておけば、口を塞ぐために殺されかねない。

 勝千代がそう言うと、朝比奈殿は片膝をついたまま大きく首を上下させた。

「川を隔てたすぐの所に布陣しておりますので、すぐにでも」

「勝手な事をされては困ります!」

 軽く請け負った朝比奈殿に、大丈夫なのかと問いかける前に、かなり焦ったような庶子兄の怒声が飛んだ。

 勝千代は気になってその怒りに染まった顔に目を向けたが、朝比奈殿はまったく気にも留めない。

 瞬きひとつせず勝千代を見上げているその視線が、むしろ庶子兄の憤怒よりも恐ろしく見えた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 朝比奈殿、あれからずっと待て!お預け!状態だったんですね。戦場に戻る時もお見送りしなかったし、あの時の命令がいい感じに熟成させてるようです。 皇子の乳母殿は、なんとなく前妻を思い出させる精…
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