21-5 下京 和光寺4
ひょっとして、またやられたか?
目を覚ましたのは、日差しがかなり高くなってからだった。
いや、疑うのは良くない。酷い寝不足を身体がリカバリーしようとしただけだろう。
うっすらと明るいこの場所は、眠り込んだ時と同じ廃寺の本堂だった。
つまり長々と眠っていた臥所の下には隠し部屋があり、皇子とその一行が身を潜めている。
東宮の第一皇子を尻の下に敷くなど、とんだ不敬だ。
真っ暗な隠し部屋で、不安な一夜を過ごしたであろう皇子を思う。
勝千代に「よしなに」と申し付けた声色はしっかりとしたもので、幼いながらに色々と考え、辛抱できる気質なのだと伝わってきた。
あの御方が愛姫の許嫁か。
二人が並んだところを想像してみて、改めてお守りせねばと強く思う。
「お目覚めに御座いますか」
無人だと感じていた本堂の一角から、南に呼びかけられた。
この男も随分長く休めていないが、大丈夫なのだろうか。
いや南だけではない。勝千代に付き合わせて、側付きや護衛の者たちにはかなりの負担を掛けている。
「……寝過ぎた」
「お疲れなのでしょう」
「そなたらも少し休んで参れ」
「はい」
勝千代が臥所から起き上がると、寝ずの番をしてた南と木原が軽く頭を下げた。
土井らは少し休めただろうか。いや、夜に襲われる可能性もあったので、休んだにしても仮眠程度だろう。
ガタつくはずの木襖が静かにスライドし、弥太郎が湯気の立つ薬湯を持ってやってきた。
その背後には燦々と日差しが降り注ぎ、昼が近いと告げている。
勝千代の温もりがまだ残る臥所の下では、皇子や乳母殿をはじめ、十数名が身を潜めている。眩い春の日差しを感じることもなく、さぞ気を揉んでいる事だろう。
だが長くともあと二日だ。
晴れ渡った春の空に目を細め、この長閑さと相反する緊迫した状況に改めて気を引き締める。
「夜に客人は参ったか」
湯呑みを受け取りながら問いかけると、通常運転の薄い笑みを浮かべた弥太郎が頷く。
「二人ほど。足軽頭と思われる者と、その配下でしょう」
忍びを寄こされなかったということは、それほど疑われていないという事か。
「境内を少し調べ、本堂のまわりを一周し、出入りする者の肩越しに建物の内部をのぞき見しようとしておりましたが、たいして得るものはなかったでしょう」
「こちらの反応を見ようとしたのかもしれぬ」
「疑われているにしては杜撰な調べ方です」
その道のプロがいうのだから、その通りなのだろう。
つまり今のところは、朝倉軍の目を誤魔化せている可能性が高い。
だとしても、もちろん楽観できる状況ではない。
今のところ注意するべきなのは下京に布陣している朝倉軍だが、伊勢六角軍の動向にも注意を払うべきだ。
段蔵が合流したので手数が倍に増え、当座の目を配るべきところに忍びを配することはできている。
今川軍五千は下京に入ることができるのか、それを邪魔しようとする者はいないか。
誰もがそれぞれの思惑に沿って動いている。こちらの都合のいいように事態が動いてくれるとは限らない。
ふと、尻の下で何か気配を感じた。
どんどんどん、と床板が叩かれる音。
勝千代は晴れ渡った外に目を向けた。
南と入れ違いで側に着いた三浦が、木襖を閉めようか閉めまいかと迷うそぶりを見せる。
いつ再び探査の手が伸びるかわからない状況で、遠慮がちとは到底言えない勢いで床を下から叩くという事は、何か不測の事態が起こったのかもしれない。
だが、応えを躊躇っているうちに音は途絶えた。
おそらく土井侍従が止めさせたのだろう。
それほど急を要するものではなかったのか?
今のところは他所からの目はなかったので、一応何かあったのかと床板を外してみた。
開けた瞬間、キーンと甲高い声が鼓膜を貫き、首をすくめる。
状況はわからないが、乳母殿が土井侍従を一方的に攻め立てヒステリックに騒ぎ立てていた。
無礼者やら慮外物やら、やたらとキンキンと高い声で叫んでいるが、ぱっと聞いたところそれほどの緊急事態ではないようだ。
隠し部屋の構造はどうなっているのか、これだけの騒ぎでも、真上にいる勝千代の耳にはまったく届いていなかった。
もしかして一晩中こういう状況だったのか?
暗がりにいる土井侍従の疲れ切った表情に、同情しそうになる。
もちろん立場を変わろうとは思わないが。
「そこな童子、皇子をこれ以上かような場所に閉じ込めるなど許しがたい。梯子を降ろし疾く引き上げよ!」
勝千代は、ヒステリックに叫ぶ乳母殿の顔色が真っ青な事に気づいた。
閉所暗所に長時間いて、そのストレスに耐え切れなくなったのかもしれない。
「御静かになさってください。今から梯子を降ろします」
「若」
反対する口調で、いつのまにか来ていた田所が声を上げる。
「ただし上ってくるのは二人までです。交代で外の空気を吸えるようにしましょう」
二人ぐらいなら、何かが起こってからでもさっと隠し部屋に戻っていただくことは可能だろう。
「気づかれる恐れがありますので、御不満もおありでしょうが、声を出すのはお控えください」
もちろん皇子は駄目だ。隠し部屋に降ろす時でさえ、振動が身体に堪える様子だった。詳しい容体はわからないが、骨を折っているというのは確かなのだろう。
乳母殿はものすごい勢いでそれについて苦情を言ってきた。
どう見てもパニックに近い状況だ。
感情的になっているときに、理詰めで話をしても聞く耳を持ってもらえない。
これはもう、物理的に眠ってもらう方がいいのではないか。
勝千代がそういう方向に考えてしまったのは、まだ手に薬湯が残る湯呑みを握っていたからか。
だが、暢気にそんな事を考えている時間はなかったのだ。
甲高く響く女性の声は、廃寺の外にまで聞こえていた。
運が悪い事に、こちらの懐をもうひと搾りしようとした者たちが、それに気づいてしまった。




