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春雷記  作者:
京都編

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21-3 下京 和光寺2

 飛んで来た脇息が勝千代に当たる寸前、谷が弾いた。

 「あっ」とつぶやいたのは投げた当の本人だ。ものを投げるのはよろしくないという自覚はあったのだろう。

 しかも危うくぶつかりそうだったのは、小柄な子供の丁度顔の位置だ。

 大人であれば胸のあたりなのだろうが、あいにくと勝千代にとっては顔面の高さだった。

 谷が腕で遮ってくれなければ、多少なりとダメージは入っただろう。鼻血ぐらい出ただろうか。

 それ程に勢いよく、思い切りのよい投げつけだった。

 転がった脇息が鈍い音をたてて床の上をバウンドする。

 勝千代含め皆が無言でそれを目で追って、それから投擲主のほうへ視線が移った。


 高貴な方々は御簾の後ろにいて尊顔を晒さないというイメージが強いが、ここ廃寺にそんな気の利いたものはなく、こぢんまりとした部屋は閉め切られ薄暗く、寝間を守るように座っているほっそりとした女性の姿は隠されていなかった。

 もちろん直視はしないようにすぐに視線を下げた。

 だが、暗がりに浮かび上がるほどに色白で端正に整った面差しの若い女性だということはしっかり視認した。

「福島勝千代殿でございます。皇子みこを我が主人のもとへお連れ下さります」

 何事もなかったかのようにそう言って頭を下げた土居侍従殿に倣って、勝千代もまた丁寧に頭を下げた。

 谷らはさっと勝千代の背後まで下がるが、必要以上に距離は開けない位置にとどまっている。また何か投げられた時の備えか、木襖の裏の見えない位置では片膝立ちだ。


「まだ童子ではないか」

 鈴の様に軽やかで特徴的な、いわゆるアニメ声が耳朶に届いた。

「童子に頼らねばならぬとは情けない」

 だがその口舌は鋭く、容赦ない。

 無条件に「すいません」と頭を下げたくなる声色、口調、そして逆らってはいけない雰囲気だ。

「お連れすると言うても、さように危ういならばここに身を潜めたままのほうがえのやないか」

「何度もご説明いたしましたが、戦が迫っております。尊い御身とはいえ戦火は避けてはくれませぬ」

 これは苦労するな。

 詳しい説明はなかったが、ここから皇子を連れ出す説得に手間取っているのだろう。土居侍従の苦労がしのばれる。

 勝千代は、助けの手が童子だということに不満、いや不安をあらわにしている乳母殿の言葉を黙って拝聴した。

 厳しい口調で気を張っているのはわかるが、疲れ切ってもいるのだろう。狭い部屋なので距離が近く、ほっそりとした彼女の指が細かく震えているのがはっきりと伺えた。

 例えばこのまま更に十日、下京で身を隠すとして、乳母殿はもとより少数しかいない皇子の護衛たちがもたないだろう。

 周囲の誰も信頼できないこの状況を解決する事こそが、皇子にとってもベストだと思う。


「若」

 木襖の影から田所に呼ばれた。

 下げたままだった頭を少し横に傾け、廊下の方に視線を向ける。

「朝倉軍が通りを片端から調べているようです」

 今川軍が到着するまでにあと一日半はかかる。

 それまで身をひそめていていいものか、捜索の手を避けるべきか。

「分散した小隊で建物のひとつひとつを家探ししています。やんごとなき御方をお探ししているのかもしれませぬ」

 田所の報告が聞こえてしまったのだろう、「ひっ」と息を飲む声がした。

 乳母殿ではない、臥所の横にくたびれた様子で座っている、年かさの医師だ。

「は、はよう逃げねば……」

 真っ青な顔でそう呟いて、周囲の視線を浴びて我に返った様子で口を閉ざす。

 老医師はそれ以上の恐怖を面に出すことを自制したが、その恐怖と不安は伝播した。

 なお一層乳母殿の震えが大きくなり、思わずなのだろう、臥所に横たわる幼子の手を握る。


「……かかれ」

「よろしいので?」

「猶予はない」

 勝千代はそう言ってから顔を上げた。

 ビクリと強張った表情でこちらを見る乳母殿に、にっこりと笑顔を向けた。

 恐ろしいのはわかる。勝千代だって、怖くないとは言えない。

 だが、大勢を率いる者として、それを面に出すことはできない。

「これより我らが衆目を集め、状況を引き延ばします。二日ほどで味方の軍が下京に到着しますので、それまで御辛抱を」

 作った笑顔のまま臥所の方に目を向けると、乳母殿は「無礼者!」と瞬間沸騰のように怒鳴ろうとしたが、クイクイと袖を引かれて渋々と黙った。

 目が合って、一秒より少し長い間視線が重なり、臥所に横たわる青白い面の幼子が小さな声で「よしなに」とつぶやいた。

 勝千代は丁寧に一礼して、「お任せを」と端的に返した。


 そして勝千代は黙って硬い臥所に横たわり、天井を見ている。

 ここは廃寺の本堂。もともとこの寺に皇子らが逃れてきた理由が、地下に隠し部屋と抜け道があるからだ。

 勝千代はその隠し部屋の入り口をふさぐように薄い布を敷き、その上に寝間を作った。

 縄梯子を下りて行けば八畳ほどの板間の部屋があり、奥に手掘りの通路がある。抜け道は他の寺の井戸につながっているそうだ。

 むしろこちらの廃寺が抜け道の出口なのだろう。

 主寺が攻められるようなことがあった時に、ここを通って逃れるように考えられたのだと思う。

 やんごとない御身分の女性や年寄り、重傷の子供には出入りが難しい作りだが、別の場所と行き来できる通路があるのはありがたい。

 朝比奈殿に、この先の寺で拾ってもらえばいいのだ。


「来ました」

 南が低い声で囁く。

 夕刻が近づき、薄暗くなった室内に、重苦しい薬草の匂いが充満している。

 弥太郎特製の苦い薬湯の匂いだ。

 勝千代はサッと目を閉じ、耳を澄ませた。

 複数の男たちが誰何しあう声が聞こえてくる。

 どかどかと踏み込んでくる足音。引き留めようとする三浦の声。

 勝千代は大きく息を吸って吐いた。

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