21-1 伏見~山科 川岸
「勝千代殿!」
久々に会う井伊殿は、四年前と全く変わらず元気そうだった。
すごい勢いで近づいてきて「大きくおなりに……」と言おうとして口ごもったので、その丸っこい顔を見上げて「お元気そうですね」とにこやかな笑顔を返しておいた。
なかなか背が伸びないのは勝千代のせいではない。遺伝だ遺伝。成長期になったら一気に大きくなって……今はそんな事を考えている場合ではなかった。
今川軍の総大将である朝比奈殿と会うために、直接出向いてもいいような気がしていたが、逢坂老をはじめとして側付きたちが総員で止めに来た。
安全が確保できないという彼らの意見はもっともだ。
北条軍のように、獅子身中の虫がいるかもしれない。
風魔忍びが狙ってこなくなっても、依頼した大元がいなくなったわけではないので、警戒は緩めるべきではない。
今川家家中には、勝千代を排除しようとする勢力が確かに存在するのだ。
「いや、驚きました。このようなところでお会いするとは」
やけに大きな声、やけに明るい口調だった。
それだけで、井伊殿が今の京の状況をある程度知っている事が分かった。
そもそも井伊殿が、龍王丸君の元服の報告やお祝いの返礼のために副将として駆り出される事自体がおかしいのだ。
井伊家は今川家に従順にはしているが、臣下に下ったわけではない。
おそらく今回の件を命じられ、真っ先に考えたのが井伊家を蹴落とすための何かの陰謀ではないかという事だろう。
不審を抱きながらここまで来て、ようやく喉に刺さった小骨どころではない不安の原因がわかると思ったに違いない。
残念ながらそれはお預けだ。
だが、捨て駒として用意された事だけは確実だと思う。
「朝比奈殿は何か仰っていましたか?」
「御指示は承ったと。下京でお会いできることを楽しみにしているとのことです」
御指示? 勝千代が眉間にしわをよせると、同様に井伊殿も小難しい表情になった。
朝比奈殿が勝千代の「指示」に是と応えるのもおかしいが、社交辞令でも「会うのが楽しみ」だなど言うような男だっただろうか。
「何もかもよくわからぬことだらけですが、詳しい状況を教えて頂いてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
勝千代は手に持っていたものをさっと井伊殿に差し出した。
釣竿だ。
首を傾げられたので、魚籠を掲げて笑みを浮かべた。
「このあたりではなかなか大物が釣れるそうですよ」
「……はあ」
そして二人は、久々に出会った釣り仲間か親子のような距離感で、並んで川の縁に腰を下ろした。
「見張られているのですか?」
釣り針を水面に落としてしばらくしてから、井伊殿が小声で尋ねてくる。
「方々から」
勝千代は少し遠めの深瀬に針を投げ、唇を動かさないようにして答えた。
「騒ぎ立てる者がいそうなので、念のために」
正確には、今は見張りの目はない。
だが、密談をしていたというより、釣りをする約束をしていたというほうが聞こえがいい。
「問われたら、久々に釣りをしていたと答えればよい。勘繰る者は当然いるでしょうが、責める事はできますまい」
庶子とはいえ今川の若君との約束だからね。
そして勝千代は、現状の京の、パッと見ただけではわからない複雑な状況を井伊殿に話して聞かせた。
北条軍に紛れて伏見にいることについても、一条権中納言様と帝の第一皇子をお救いするためなのだと。
井伊殿が気にするのはやはり、北条家の副将が左馬之助殿を暗殺してまで伊勢殿に協力しようとしたことで、何やら心当たりがあるのか、水面を睨んで険しい顔をしている。
「今川館からの監視があるのはわかっておりました」
なんでも、複数の文官と直臣の役持ちが同行しているのだそうだ。
「とはいえ、兵はすべて遠江勢です。ですから裏切られる心配などはしていなかったのですが」
井伊殿はぴくぴくと引く釣竿の先をにらみながら、唸るように言った。
「北条軍同様、我らをうまく使って伊勢様の私兵のごとく動かす気でいるのかもしれませぬな」
そうすれば、今川家が伊勢派閥として合力したのだという実績が残る。
「朝比奈殿であれば、そのような者たちを一蹴しそうですが」
「いや、かなり大きな顔をして幅をきかせておりますよ」
遠江勢を甘く見ているのだろうか、相当に高圧的な態度でいるらしい。
「文官ですよね? 自前の兵を率いてもいない」
「ええ。ですが御身分はそれなりです」
肩をすくめる男を横目に、勝千代は首を傾げた。
文官如きに良いようにされる朝比奈殿ではない。井伊殿とて、気弱な気質ではないのだから言うべきことは言うはずだ。
にもかかわらず、「大きな顔」をしている? もしかして今川家の一門衆の誰かか?
まあ、誰が来ているにしても問題はない。
総大将の朝比奈殿が健在であれば、指揮系統に口出しできないからだ。
ところで……引いているぞ、釣り上げないのか?
勝千代は井伊殿の釣竿の先を見つめて、いつ引き上げるのだろうと小首を傾げた。
リールもなければ釣り針も単純なものなので、餌に食いついたとしても釣り上げるにはかなりのコツがいるのだ。
井伊殿は心ここにあらずの態で、しかし素早く竿を引いて大ぶりな川魚を釣り上げた。
「……上手いですね」
「年季が入っておりますからな」
どうやら釣りは得意らしい。
一時間ほど、情報交換をしながら釣りを続けた。
必要な話は最初の十五分ほどで済んだのだが、勝千代がせめて一匹釣り上げるまではと粘ったので余計な時間を食ってしまった。
釣果は井伊殿の圧勝だ。
勝千代の竿にもあたりはあったが、結局一匹も吊り上げる事が出来なかった。
魚籠の中で撥ねる山女魚を見下ろして、むっと唇を尖らせる。
悔しいのでリベンジを申し出た。次の機会までには逢坂老にでもコツを教えてもらおう。
井伊殿は笑いながら、快く承知してくれた。




